【異郷幻灯】07.弘明寺——平岡直子

異郷幻灯

旅先で訪れた町や、行ったことはないのになぜか心惹かれる場所、また、旅を詠った詩歌について……。
そんな、心の中にある「異郷」をテーマに、自由な切り口からエッセイを書いていただくリレーエッセイ企画、第七回は歌人の平岡直子さんです。

 異郷幻灯というコーナーに載るエッセイの依頼をもらった。幻灯、の二文字を添えるまでもなく、わたしには異郷という言葉は内側からぼおっと光っているように感じられる。夜に住宅街を歩いてアパートへ帰る。道端の家々の内側からやわらかい光が漏れているのをみると、痛烈に、異郷、と感じる。あるいは、どこかの家の台所の格子窓から生活感が垣間見えるとき、そこに並ぶ洗剤のボトルなどが寒々しい蛍光灯に照らされている様子がわかるときに、異郷、と思う。ときどきは立ち止まって眺めずにはいられない。自分がどれほど遥かな光のなかへ帰還するのかを意識せずに足を踏み入れるであろうその家の住人を想像する。
 短歌で内側からぼおっと光っていると思うのは五島諭の歌だ。五島さんの歌には異郷を感じる。十五年ほど前(十五年前、という時間の単位にすでに「異郷」に近いものがあるけれど)わたしは早稲田短歌会に入ったばかりで、短歌のことをほとんどなにも知らなかった。遠い先輩や、広い意味での先輩のような人たちがやっている短歌の同人誌「pool」がコンスタントに発行されていたころで、リアルタイムで入手して読んでいた。なにしろ短歌のことをなにも知らなかったので、読み方がよくわからない歌が多かったし評論の文章はどれも難しかったけれど、奥付や編集後記まで含めてすみずみまで読んでいたと思う。すみずみまで読むのは、そこに載っている五島さんの歌を読む前の儀式のようなものだった。そのころ「pool」は五島さんの作品が読めるほぼ唯一の場所だった。歌集『緑の祠』が刊行されるよりもずっとずっと昔の話だ。
 五島さんの歌が好きだった。好きというか、ちょっとわけのわからないような感情があった。もうほかに読むところがなくなり、表紙の絵や手触りなどもよく確認したあとで、最後の最後に五島さんの作品ページを開く。期待を裏切られたことはいちどもなかった。読みながら息を吸い込むと目の奥が虹色になる感じがする。その号をはじめて読むときだけではなく、再読するときにも念のためにほかのページをよく読んでから五島さんのページを開いていた記憶がある。
 五島さんは高校時代にノルウェーへの留学経験があり、おそらくその経験は文体の形成に影響しているだろう。作品にもノルウェーや留学に関係するモチーフはときどき登場するし、それらはたしかに日本じゃない土地の匂いを放っているけれど、五島さんの歌の異郷っぽさはそれだけでは説明できないような気がする。
 わたしは海外につよい憧れがある。夜眠ると外国に行こうとする夢ばかりみる。乗り込んだ飛行機が離陸しないままいつのまにか陸路を走るバスに変身している夢や、どうにかフランスに着いたはずなのにそこがどうみても国分寺駅にしかみえない夢だ。「外国」のいちばんときめく部分は、そこが日本語の外側だということだと思う。根本からわたしのしらない言葉によって組み立てられた生活があるということ。想像するだけで興奮する。それなのにわたしがパスポートすら所持していないのはひとえに貧乏だからだけど、人は真の欲望のためならお金をかき集めるものなので、わたしはほんとうはこうして「日本語の外側」に遠く憧れつづけたいだけなのかもしれないとも思う。
 うまく言えないのだけど、五島さんの歌に惹かれるのはこういった海外への憧れに近い。簡明な日本語でできているけれど、歌を割ってなかをみることができたとしたら、その内側にわたしのしらない言葉がびっしりと書き込まれているのだ。
 平岡さん、弘明寺に桜を見に行こうよ、と五島さんから電話がかかってきたことがある。なぜ弘明寺だったのかよくわからないが、五島さんの家から近かったとか、近くに用事があったとかだろうと思う。五島さんは自分の都合に他人を巻き込んでいく術に長けていた。弘明寺(寺)の桜はそれなりにきれいだったけれど、弘明寺(駅)近辺の住宅街を長く散歩したことのほうをよく覚えている。ほどよい上品さとほどよい下町感がミックスされたいい住宅街だった。玄関先に子ども用の自転車が置かれている家があり、自転車のかわいらしさに感心してしばらく足を止めた。
 夜に住宅街を歩いてアパートへ帰る。道端の家々の内側からやわらかい光が漏れているのをみると、痛烈に、異郷、と感じる。わたしにとって異郷とは、自分がそこには決して立ち入れない、という輝かしい疎外のことなのだ。

◇平岡直子(ひらおか なおこ)
1984年生まれ、長野県出身。早稲田短歌会への参加を経て、同人誌を中心に活動。現在は歌誌「外出」同人。第23回歌壇賞受賞。

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