旅先で訪れた町や、行ったことはないのになぜか心惹かれる場所、また、旅を詠った詩歌について……。
そんな、心の中にある「異郷」をテーマに、自由な切り口からエッセイを書いていただくリレーエッセイ企画、第八回は歌人の笠木拓さんです。
子どものころ、家にあった安野光雅『天動説の絵本』を何度も読んだ。副題のとおり「てんがうごいていたころ」、大地も海も平らで、ずっと海を進んで行くとやがては〈果て〉にたどり着く。そこでは、「海の水はきっと滝のようにながれおちているにちがいないのです」。たしかに、行き着いてしまえばきっぱりとそこが終末、という世界観は、肉体が生ききった果ての死、みたいなイメージと齟齬がない。でもじっさいには、生はもっとぐずぐずと冗長に続くしかないのだと、後になって知った。
21世紀の初め、たいていの人にとって球体であるところの地球に、最果ての町がある。アルゼンチンのウシュアイアは南アメリカ大陸の南端、ビーグル水道に面した港町で、世界で一番南にある都市とされている。これより南にあるのは、ほんの小さな集落と、海と、南極大陸だけ。港に降り立つと、こぢんまりとした町並みのすぐ向こうに雪の峰が見える。2009年3月のその日は曇天で、曇天が似合う町だなと思った。ずっと昔からそうだったみたい。世界の果てはすがすがしくも潔くも、たいしてさびしくもなかった。
生活のほとんどだった大学の吹奏楽団を引退したのが、そのすこし前の12月のことだった。最後の定期演奏会は、区切りではあったけど〈果て〉ではなかった。終わった途端、もうどこへも帰属できない気がして、怖くてほんとうに震えた。それなのに容赦なく日々は続くのだった。1月、南半球をめぐる大きな船に乗った。
ウシュアイアには1日停泊した。何人かで町外れからリフトに乗って、トレッキングコースを歩いて登った。頂にたどり着くでもなく、これ以上は体力とか備えとか(スニーカーだった)を考えると引き返すべきだろう、というあたりで引き返した。でも、眺めは良かった。登ってきた雪の斜面を見下ろすと、町と海が一望できた。ぜんぶが不思議なほど遠くなかった。
山を下りてからは、ひとりで町を見てまわった。港から山までの奥行きがわずかしかなくて、ゆるい斜面にぎゅっと並んだ建物の間を歩く。ペンギンのTシャツを買う。小さな博物館に入る。のんびりと午後の時間が流れて、南半球の3月だから夏の終わりで、のんびりと寄る辺なかった。
日本を出るすこし前だったと思う。生きてきて初めて、人と決別をした。
寄る辺ない午後は夕方になり、そうして海のそばを歩いていた。繋がれていない大きな犬がいたので、さわって、写真を撮った。ぼろぼろの、もう海には出られないだろう船に、カモメが羽を休めていた。そういう風景を見ながら、頭はある一人のことを考えていた。決別したはずの相手の不在と記憶が、錨みたいにじかに心臓に引っかかっているのを感じた。世界の果てに来てまでどうしてこんなことを思うのだろう、と思った。思った、ということをいまでも、まざまざと覚えている。
何年か経って『築地正子全歌集』を読んでいたら、こんな歌をみつけた。
翔ぶ鳥はふりかへらねど廃船は過去の時間を載せて傾く 『鷺の書』
過去の時間の堆積が船を傾かせるように、人はじれったく終わりへ沈んでゆくしかないのかもしれない。来し方を振り返りながらも、わかりやすくいっそ潔癖な〈果て〉になんてたどり着けないまま、今日もまた今をやり過ごす。それは絶望ではなく、案外希望なような気もするのだけれど、なぜかはまだうまく説明できない。あのときカモメが船から飛び立つところを、見たのだったかどうか。
ともあれ、いちど世界の果てに行ってしまったからには(そこに〈果て〉はなかったのだけど)、以降の生はすべて帰路みたいなものだろう。帰りたい未来をいまも探している。ウシュアイアで撮った最後の写真は、船で遠ざかりながら町明かりを写した、手ブレの一枚だった。
◇笠木拓(かさぎ たく)
1987年新潟生まれ。石川育ち、京都遊学、富山在住。第一歌集『はるかカーテンコールまで』(港の人、2019)で第2回高志の国詩歌賞、第46回現代歌人集会賞。「遠泳」同人。