参加者
青松輝(あおまつあきら)
@_vetechu 「第三滑走路」、合同歌集『いちばん有名な夜の想像にそなえて』(青松輝+瀬口真司)。「ベテランち」「雷獣」の名義でYouTubeでも活動。
谷川由里子(たにがわゆりこ)
@YTanigawa1982 1982年神奈川県藤沢市生まれ。2018年に「シー・ユー・レイター・また明日」50首で第一回笹井宏之賞大森静佳賞を受賞。2021年に歌集『サワーマッシュ』(左右社)を刊行。
温(あたむ)<司会・記>
@mizunomi777 「うたとポルスカ」運営、「イルカーン」メンバー。
詠草
辛いもの食べたい 辛いもの食べたい…
(温)
目に見える風が吹いたら永遠に裾を広げろ一反木綿
(谷川由里子)
〈結衣ちゃんは大丈夫だよ〉と言いながら腰のあたりを這ってる光
(青松輝)
歌会記
温 お集まりいただきありがとうございます。例によって僕の好きな歌人をお呼びしてまして、今回は青松輝さんと谷川由里子さんのお二人と一緒に歌会をしたいと思います。なお、これまではZOOMで歌会してたんですが、本日は笹塚のお部屋を借りて実際に顔を合わせて行います。よろしくお願いします。
青松 よろしくお願いします。
谷川 よろしくお願いします。
温 それでは、一首目から始めていきましょう。
※歌会中に引用された歌については、末尾に出典を記載しています。
辛いもの食べたい 辛いもの食べたい…
青松 〔辛いもの食べたい 辛いもの食べたい…〕。〔辛いもの〕が5、〔食べたい 辛い〕が7、〔もの食べたい〕が6なのかなと。韻律としては下句がないって形になるんですけど、まぁ〔…〕を下句くらい長く感じてほしいということなのかな。最近、初句とか三句目の6音がけっこう面白いというか、好きで。7音の枠に8音が入ってもそんなに変化ないんですけど、5音の枠に6音入れると「増えたな」って感じがあって、この歌も、続く下句がないこともあってスピード感が出てるのかなと思いました。この3点リーダは「ほんとうに食べたいなぁ」という余韻なんですけど、それはおもしろでやってるのかなというか。ゆるいですね、強度が。こういうところ温さんの短歌っぽいと思いつつ、ここにおもしろを読み込むのは作者に対する信頼ありきなので、そこはいいんだか悪いんだか、とも思いつつ。あとは短歌の最後に「…」があるパターンってちょくちょくあって、自分でも作るときあるんですけど。世の中の正しい表記では「……」って3点リーダを偶数個にするんですよって言いがちなんですが、この歌だったら「…」でもいいのかなと思いました。
温 ありがとうございます。谷川さんいかがでしょうか?
谷川 はい。うーんと、青松さんの三句目の6音の話がおもしろくて、途中からそのことを考えてました。そうか、そうか……。青松さんは5・7・6だったと思うけど、私は5・4・5・4で、ぽつんぽつんと読みましたね。〔辛いもの食べたい 辛いもの食べたい…〕。ほんとうに人間がいて、ほんとうにって変な言い方ですけど、人間が食べたそうにしている感じにするなら〔辛いもの食べたい 辛いもの食べたい 辛いもの…〕くらいまでやる気がするんですよね。エンドレスじゃなくて2回でおしまいになると、初読の印象として「辛いもの食べたい妖怪」っぽいなと思いました。世の中にはいろんな妖怪がいるじゃないですか。川で小豆を洗う音をたてる、小豆洗いとか、そういうの。「なぜそれをそこまでするのか?」と不思議になる、あの類の執拗さがこの「辛いもの食べたい」にはある気がします。欲望を2回だけ言っているのが妖怪っぽいなと思った感じですかね。この歌が定型に沿ってないから、結果こういう読みになったのかもしれないです。
温 たとえば定型に沿って辛いもの食べたい欲が提示されてたら、そこまで妖怪感はないですか?
谷川 うーん、そう思う。その場合はこの、辛いもの食べたい人の視点に立った上で、なんでそう言ってるんだろうね、みたいな話ができる。自分を置き換えて想定することが許されそうというか。だけど、この歌には「私だったらこうなんだよね」という話ができないような気がする。なんだろう、定型だと人間っぽいのかなあ。
温 定型は共感を導いてくれる?
谷川 共感にしても、反感にしてもですかね。この歌よりは、私やあなたに何かを言わせてくれるかな。まぁでも難しいな……。
青松 僕はけっこう逆に、定型を外してもわざわざ書いてあるってことは、なにか意思を持って書かれている感じがする。短歌として完結していなくて、ほんとうにセリフとして発生しているような。空中に浮いている感じがするというか。
谷川 セリフとして……。なるほど。
青松 この歌の主眼は「辛いもの」自体ではなくて、「辛いものを食べたいという欲の性質」にあって。なんとなく……たとえば一人暮らししている人が「辛いもの食べたい」って言ったら、その人ストレスが溜まってる感じがするんですよね(笑)。
谷川 確かに(笑)。
青松 辛さは痛みだから、とか言われがちじゃないですか。辛いものばっか食べてる人の、傷ついた心に主眼があるのかなと。しかも、2回言って3点リーダをつける言い方にはインターネットのマナーっぽさもあって。「◯◯したい…したくない?」みたいな。傷ついた心が、「辛いもの食べたい」という言っちゃえばしょうもない欲望に落ち着いちゃって、そこに「余韻がある」ことの表現として3点リーダを使うのもしょうもないんですけど……それが読みどころなのかなと思いました。
温 インターネット構文である「◯◯したい…したくない?」っぽさ、「辛いもの食べたい」の祈りとしてはしょうもなさ、がこの人の繊細さを連れてくるところに、メタな領域での「どのくらい本気で聞けばいいんだろう感」が登場してくるということですかね。
青松 繊細な人ほど「蒙古タンメン中本」が好きとか、疲れてる大人がプリキュアが好きとか、そういう「鋭敏さが逆にしょうもなさに返っていく」みたいな。消費社会っぽいものに皮肉っぽく繊細さを仮託していく、というのはインターネットを通したエモさ、エモさというか……ノスタルジーみたいなものの王道パターンですよね。
温 確かに、コンビニとかその文脈で頻出しますね。
青松 「辛いもの」という括りかたの、解像度の低さもあって。ほんとうは専門的には、麻とか辣とか、辛さにもいろんな辛さがあるんですけど、そこを意図的にオフしているというか、「オフにしないと耐えられない」を匂わせている。まぁ、それでほんとにいいのだろうか……とも思うんですけど。この短歌にというか、これ系全般にですけど。
温 なんか流行ですよね。解像度を下げること自体が。
青松 うん、解像度下げること自体が流行というのは、ほんとうにあるかもしれないです。音楽好きな人が「結局、大きい音がなってたらなんでもいい」とか言い出す、ハイセンスな人としての仕草。歌に戻ると、僕にとってはこの人は「辛いもの食べたい」以外に欲望があると気づいていながらも出力としては「辛いもの食べたい」に留めている人なんですよ。
温 まさに「仕草」って感じですね。
谷川 そっか。最初のターンからね、青松さんが三点リーダへのこだわりを持っていると感じていて、その理由がいま聞いててわかりました。三点リーダが青松さんの読みを引き出しているんだな、と。ここが意図であり、余韻であり、歌の世界観を作り上げている核なんだね。たぶん私、この三点リーダの重要性を青松さんほど感じずに、半分〔辛いもの食べたい 辛いもの食べたい〕だと思って読んでて。だから「妖怪」とか言ってたんだと思う。
青松 あー、なるほど。
谷川 三点リーダについてコアとは考えなかったけど、一方で1字空けが無効化されてるなっていうのはすごく感じた。本来1字空けってけっこう目立つものなんだけど、三点リーダのほうが目立つことでそれが無効化されて、ただの空間になってるっていうか。
青松 たしかに三点リーダがなかったら1字空けにもっと意味があったでしょうね。三点リーダってそもそもおかしいというか、普通は1文字で1文字ぶんの時間経過なんですけど、これは3文字ぶん……もっと言うと無限の時間的余白がありますよ、と言える。
谷川 三点リーダって青松さんもふだん使います? 私たぶん、使ったことなくて。
青松 僕はけっこう、多いですね。(iPhoneで自作を検索して)いま数えたら6首ありました。
温 この三点リーダとか、あと3首目にある山括弧とか、読点も句点も全部そうなんですけど、本来、短歌にはなくてもいいやつなんですよね。だから格闘技の、拳と拳の場所なのにナイフ持ってきてるみたいな。すこしスポーツのルールが変わる感じありますね。たぶん谷川さんは拳のみ派だと思うんですけど。
谷川 まぁでもそれは、わたしが拳を好きなだけなので。
青松 拳を好きなだけ(笑)。
谷川 むしろ武器がダメだと言われているわけではなくて、もともと何をしてもいい場所で、私が武器を持ちたがらないだけで。あー、でも三点リーダの話を聞いていたらじわじわと思い出したんですが、温さんが前の歌会記で「金魚」という語に対して「お得感がある」って話をしてましたよね?
温 「金魚」の字面は金色を連れてくるけど、金魚の実物は赤色を連れてきて、一語なのに二色のイメージがあるっていう話ですね。初谷さんの〔炭酸水に入れた金魚の窒息の 話がきれい 酔ってるんだね〕について言ってたやつ。
谷川 そう。そういう感じの世界にある三点リーダだな、って思うと青松さんが言ってたとおり無限の空間があるなぁって思いました。このあたりまだまだやれることが多そうですね。
青松 この歌、このあと「辛いもの」食べると思います?
谷川 うーん……、食べるとしても、直後ではなさそうな気がするかな。リフレインしてるから。「辛いもの食べたい」って一回言うだけのほうが、まだ食べそうかも。
青松 一回言うだけのパターンだと、二手目で食べてる可能性ありますからね。この歌は、二手目も同じ場所に留まっちゃってるから。
谷川 しかも二手目のほうがさ、無限……食べられない方の無限に向かっている気がするよね。キッチンには向かえてなさそう。やっぱり不思議な歌だよね。
温 最近、こういう歌ばっかできるんすよね。
青松 こういう歌ばっかりできるんですか?(笑)
温 そう(笑)。昔作った短歌だと〔塩素(えんそ)……?〕とかね。この系列の成果をずっと探してるんだと思います。
青松 (温のTwitterアカウントを確認して)いま見たら、〔フ〜フフ フ〜フ♪〕っていうのもありますね。
温 その歌が入ってる「わたしたちはプリツカー賞の受賞者」っていう連作は1首目も短いです。〔言うことなどないかしら〕っていう。
青松 〔フ〜フフ フ〜フ♪〕と〔辛いもの食べたい 辛いもの食べたい…〕とかを戦わせてるんですか?
温 戦わせてます。だから戦った結果、負けちゃったのもいます。〔レモンサワー飲んで〕っていう、こないだ谷川さんのいた歌会に出したやつなんですけど。
谷川 あったね。そう、それのこともいま思い出してたよ。
青松 〔レモンサワー飲んで〕と〔辛いもの食べたい 辛いもの食べたい…〕両方いってるんだ。めっちゃ研究家じゃないですか(笑)。
温 はい。この研究室、僕しかいないので。
谷川 そっか、他の人がやってくれないと一人でやるしかないんだ(笑)。
温 そうなんです(笑)。僕の認識だと、この研究室はもともとはだしさんが入ってたんですよ。はだしさんの短歌に〔いっひっひ、魔女だよ〕というのがあって、僕はその歌から影響を受けてるので。いま常駐してるのはわりと僕のほうかもしれないですけどね。
谷川 他の研究員もいれば「レモンサワー」か「辛いもの」のどっちかかもしれないのか。
青松 涙ぐましいって。推敲のときにどっちかに絞るって、普通は。
谷川 でもほんと、記名歌会にいい歌だね。
温 そう、でも青松さんが最初に言ってたことに近いんですけど、「温」という作者名によって読みが変わることもあるだろうなと……。こういう類の歌をたくさん作ってる人が、またこういう類の歌を作ったという背景が生じてしまうので。でもそれは致し方ないですね。
谷川 こういう歌の場合はつくるタイミングと、数も難しいね。あんまりたくさんつくってみんなが見慣れちゃうとさ、効果が薄くなるかも?
温 そうなんですよ。だからその、焼畑農業ですね。
青松 焼畑農業ってのは、割としっくり来ますね。だから、けっこう危うい気はするんですよね。温さんがというか、他の人も含めてこういうやり方が。
温 どう向き合ってます? この焼畑農業問題。
青松 三点リーダとかはなるべく自粛するか、最近はもう「短歌の焼畑農業がコイツをもって終わった」という地点になりたい、という思いがありますね。そういうのが完成した地点になりたい。あとはもう、2周目しか残ってない状態にしたい。
温 わかるわかる。と言いつつちょっと違うんですけど、僕はこの類の方法論について、他の人が手を付けようと思っても全部僕がやり終わってる状態になりたいです。……このへんで2首目に行きましょうか。
目に見える風が吹いたら永遠に裾を広げろ一反木綿
温 〔目に見える風が吹いたら永遠に裾を広げろ一反木綿〕。むずいですね。けっこう読むのがむずい歌だと思いました。「目に見える風」で表される現象のパターンが多いですが、僕のなかでは「色がついた風」だと思ってます。他の媒介によって可視化されているのではなく、風自体に色がついているから見える、というのが「目に見える風」の第一義かなと。〔永遠に裾を広げろ〕は、要するに一反木綿に対して「どこまでも伸びていけ」と言っているのかなぁ。一般的に一反木綿には限りがあるけど、目に見える風が吹いたときに関してはずーっと伸び続けていけ……ということかと思います。そうすると、桃色とかの風のなかで、終わらない飛行機雲みたいに一反木綿が伸び続けていく、美しい景色が見えてきますね。青松さんはどう読みました?
青松 そうですね……。「目に見える風」を色がついているとは考えてなくて、一反木綿が風に反応して動くから、結果として目に見えるということを「目に見える風が吹いたら」という言い方にしてるのかなと思いました。僕も一読してすっと腑に落ちたわけではないんですが、それは「一反木綿」という架空の存在を実景として思い浮かべにくいからなのかも知れないですね。あとはこの「永遠」をどう読むかで、温さんの読みだと空間的に一反木綿が永遠に伸びるということだと思うんですけど、僕は「永遠のほうに向かって」というイメージを、不可能っぽさも込みで読みました。
温 永遠「に」の「に」が、「に向かって」というニュアンスですかね。
青松 あとちょっと、あんまよくない意味で気になるのは、一反木綿の「裾」って裾なのか?という。服の裾と同じだとしたら細くなっていくところが裾なんですけど、一反木綿にとってそこは裾というより身体なのではと思って。そこは一反木綿に対して配慮してあげたほうがいいんじゃないかみたいな。
温 それは読者の読みやすさの話ですか?
青松 いや、一反木綿に対する態度の話です。一反木綿なんかいないんだからほんとうはいいんだけど、この歌は一反木綿へのメッセージという形をとってるわけなので、最終的には人間が読むにしても、一反木綿に対するフェアネスが保たれていてほしい。
温 まぁ、一反木綿ってただの布だから、「裾」なる部位が存在するのか疑問ですけどね。要するにただの布なのに。
青松 あぁそうか、本来はただの一反の布ですもんね。あのキャラクターの姿はだから、あの鳥取の人……。
谷川 水木しげるさん。
青松 そう、水木しげるさんがデザインした姿ですもんね。
温 水木しげるの情報として「鳥取の」が最初に来ます?(笑)鳥取の、境港の水木しげる。
青松 そう、鳥取といえば(笑)。あとは、これもズルい評っちゃズルい評なんですけど、「永遠」とかを言えるのは谷川さんのストロングポイントって感じもけっこうしますね。
温 「永遠に」、強いですよね。おっしゃるとおり、谷川由里子という作者名が添えられていることが影響してそうですけど。
青松 そうですね。この「永遠に」は、普通だったら成り立ってないって言われてもおかしくない。そこを、横車を押すというか、腕力で通すみたいなところを、谷川由里子の作家性と言っていいのかなと。〔愛してる・シー・ユー・レイター・また明日 天気がよければ笑ってほしい〕みたいな、そういうスタンス。もちろん谷川さんのなかでは細心の注意を払ってるんだと思うんですけど、他の作者だったらもっと「細心の注意を払ってる」ことをアピールしながらじゃないと使えない。
谷川 そっか、そんな感じ言われたことあります。
温 「愛」とか「恋」とか、この「永遠」とか、みんなが扱いに困りそうな言葉を投げ込める感じ、ありますね。
谷川 「永遠」についていうと、この歌でたぶん初めて使ったんですよね。「いつか使いたい!」って20年くらい温めていました。歌を作りはじめて最初の頃ってさ、「青空」とか「笑顔」とか「永遠」とか、使いたいじゃないですか。でもある時期を境にいまおっしゃってくださったような理由で使えなくなるんですよ。でもいつか使いたいと思って、使えない言葉があるなんて……。
青松 ほんとはね。中途半端に短歌がうまくなって、本来書くべき永遠のことが書けなくなるのはおかしい。
谷川 わざわざそれを、具体に戻したりするじゃない? ほんとは「永遠」って言いたいのに。
青松 あー! それは許せないですね。
谷川 今回の歌でいえば具体じゃないけど、三句目を「長く長く」で6音にするとか(笑)。もちろんそれがいいケースもあるんだけど、「永遠」に対する負け惜しみでは言いたくないよね。だから「永遠」を、身近な言葉にしようって思ったの。
青松 だからそれも、読んだ人には伝わってるというか、谷川さんのなかでは細心の注意が払われてるんだろうなってのはありますね。
谷川 こないだ「キラキラ」が入ってる歌を歌会に出したんだけど、ほんとうに「キラキラ」だったとしても、「キラキラ」って単語レベルで言えば、短歌以外のものも絡んでくるじゃない。だからちょっと注目のされかたが難しいなと思ったりしました。
温 そうですね。詩っぽい言葉は詩のなかに閉じ込めておけるから安心感があるけど、「キラキラ」とか「永遠」は詩の外でも活躍している言葉だからみんな不安になっちゃうのかも。
谷川 なんでだろうね? ポップになりすぎるのかな。
温 それもあると思いますが、「キラキラ」を聞きすぎて、「キラキラ」がわかんなくなっちゃってる、のほうが強い気がします。
青松 うん、そんな気がしますね。高校バスケやってるなかに、めっちゃデカい、おかしい体格のやつが入るとゲームとして成立させるのが難しくなる。
谷川 「永遠」とかもそうってこと?
青松 たぶん。ほんとうはそんなことないんですけど、そこは読者の側の問題というか。「すべて」とかもそうですよね。
谷川 「すべて」! 「すべて」も使いこなしたい。
青松 なんかこれね、一回ブログにも書いたんですけど、第4回の笹井宏之賞で佐原キオさんが〔なほもぼくは衝動買ふよその椅子と椅子にまつはるすべての日々を〕って歌を、同じく涌田悠さんが〔立っているからだが座るまでにある無数の座る以外の行為〕って歌を出してて。どっちも椅子なんですけど、「椅子」に紐付けたら「椅子のすべて」は言えるから、「すべて」の歌は作れないけど「椅子のすべて」の歌は作れるっていうその感じってあるよなと思って。それぞれの歌は別に良いと思うし、個人攻撃するつもりはないんですけど。このしみったれた感じ。クソムカつくぜと思って。いいんですけど別に。
温 言いやすいし、読みやすいですよね。「すべて」って言われても「すべて」過ぎて感慨がわかないけど、「椅子のすべて」なら間接的に「すべて」の端に触れることができて、味がわかるようになる。
青松 それ自体は悪くないんだけど、それがテクニック化しちゃったら意味ないというか。
谷川 ほんとうに「椅子のすべて」の話をしたいんだったらOKってことですよね?
青松 そう。ほんとうに「椅子のすべて」について話したいんだったらいいんだけど……。
谷川 「すべて」の話がしたいのに、その「椅子に紐づくすべて」のほうで、満足しちゃってるんじゃないのってところに問題提起があるのか……。私はわりと素直に読んじゃうので……いや、青松さんが素直じゃないっていうわけじゃないんだけど。
青松 いや、僕は素直じゃないです(笑)。
谷川 「椅子にまつわるすべて」って言われたら「椅子にまつわるすべて」って思っちゃうかも。
青松 そうですね。まぁ、この人たちが悪いんじゃないんですよ。でも笹井宏之賞の個人賞って5つしかないのに(※佐原キオさん、涌田悠さんどちらも個人賞を受賞)、そこに「椅子のすべて」の人が二人いたらさすがに気持ち悪いというか。
谷川 つまりちょっとこう、ポエジーとしてなにかあるんだろうね、いま。
青松 そう、いまのポエジーのラインなんだと思います。
〈結衣ちゃんは大丈夫だよ〉と言いながら腰のあたりを這ってる光
谷川 〔〈結衣ちゃんは大丈夫だよ〉と言いながら腰のあたりを這ってる光〕。さっきの話にもあったけど、鉤括弧じゃないんですよね。山括弧になってる。そうすると、これが仮にセリフだとしても、いま発されているのではなくて、過去の回想や未来の予言のセリフの可能性があるなと思っています。ただ〔と言いながら〕とあるので、言っている時間軸においては、このセリフと「光」は同時には存在している。〔這ってる光〕は……そもそも光は意思を持って動いているものではないので、虫みたいに見える。「這ってる」だしね。光がゆらゆらって動いてるのを這ってるって言ってるのかな。〔腰のあたり〕も重要そうな気がするな。首筋とか頬骨とか光が入りがちな場所ではなく、腰。こう書かれると、横たわってるようにも思えるよね。立ってるなら「お腹」とか言いそうじゃん。横たわってるほうが、腰が目立つ姿勢な気がする。……でも横たわると急に雰囲気が変わりますよね。結衣ちゃんが横たわってるんだとしたら、なんかドラマが始まってしまうかも(笑)。
温 うん、でもけっこうドラマ的だと思います、この歌は。そうですね、やっぱり「光」に注目したいですよね。「光」は基本的には嫌じゃない、よい言葉なんですけど……。
谷川 でも這ってるんだよ。
温 そうなんですよ。「這ってる」と〈結衣ちゃんは大丈夫だよ〉に引っ張られるように、「光」も嫌さのある言葉に染められてますよね。
谷川 なんかこう丹念に、そっち側の言葉にしようとしてるような。「大丈夫」もそうよね。いろいろなニュアンスがあると思うけど、そんないい言葉じゃないんじゃないの?っていうのを、この歌から感じる。でも難しいな……、青松さんの名前があると読みが変わりますよね。普通に読んだらストレートに嫌なんだけど、青松さんの名前があるともう一回捻られてるのかも、〔と言いながら〕でねじれてるのかも、って気がする。
温 それは意味のレベルでまるっきり逆になる、ということじゃないですよね?
谷川 うん、意味じゃないです。意味というよりは体感かな。こういうふうに言ったら嫌だよね、を理解した上で書いているのではって思って。
温 「青松輝」という作者名によって。
谷川 この歌が全体として、露骨に嫌な感じがあるがゆえに、普通だったら嫌なものにみえるこの「光」が捻じれて、希望的なものになってるような気も、する。
温 〔と言いながら〕がすこし謎めいてるのは確かですね。たしかに光が、一周回ってきれいな光に転化している可能性もある。でもそこは確定できないかなぁ。だから、結果的にいい光と嫌な光が同時に存在することになるんじゃないですかね?
谷川 そうだよね。〔這ってる光〕は、光自体が這ってるんだよね?
温 そうですね。実際にはだから、結衣ちゃんが動いているせいで光が動いているように見えるか、光源そのものがゆっくり動いてるみたいなことだと思うんだけど。
谷川 あー、結衣ちゃんが動いてる可能性もあるのか? えー、そっか。そこは全然、私は結衣ちゃんは石のように動いてないと思ってた(笑)。
温 可能性としてはあるんじゃないですかね。でも〔這ってる光〕が、光が虫のように意思を持って動いているってニュアンスなら、結衣ちゃんは動いてないのかな。
谷川 〔這ってる光〕って新しいよね。よくさ、歌人はなんでも光らせすぎとか言うじゃん(笑)。「産毛」光りがちとか。あと「睫毛」も。でもこれは、光自体が這ってるんだよ。
温 新しいですよね。光だけがこの空間で動いてるんですもんね。しかも這って。光だけが這ってる。
谷川 そうそう。だから結衣ちゃんが動いてないって言ったのもそうで、この歌で光だけが生き生きと動いている。結衣ちゃんが動いてないから、そこまで艶めかしい感じに読まなかったけど、状況としてはそっちのほうが読めるのかな。
温 結衣ちゃん動いてなくても、艶めかしく読んでいい気がしますけどね。腰あたりに光が当たってる状況って艶めかしい系じゃないですか?
谷川 裸体みたいな。
温 そうそう。服着てる状態だと、そんなに腰まわりのイメージしないですし。同じ箇所に光が当たってたとして、「お腹」か「足」って表現しそうですよね。
谷川 そうだよね。服着てたら腰ってだいたい腹部だもんね。あとこの山括弧の使い方も気になって。山括弧だと、誰かに言われてる以外の可能性も出てくるかも。自分が自分に言うとか。
温 たしかに。もちろん誰かに言われてる可能性が一番高いんだけど、鉤括弧ほど確定的ではなくて、全体的にふんわりする印象ですね。
谷川 わたしこの、セリフを表すために山括弧を使うっていうのが意外だった。鉤括弧でよさそうな山括弧ってあんま見たことない。珍しいよね? だから、普通の発話なのかここだけではわからなくなる。
青松 記名の歌会なんで喋っちゃうんですけど、そこはなんか、鉤括弧には絶対したくないってうのはありますね。鉤括弧にすると作為が強くなってしまうかなという。
谷川 そうか。私も1回だけ、使おう!って思って使ったことある、山括弧。セリフじゃなくて、どっちかというと括弧に近い使い方だけど、括弧とちょっと違うニュアンスが欲しくて。
温 たぶん山括弧がいま、一番何もルールがないんですよね。括弧系の中で。
谷川 へえ。山括弧って使い方決まってないよね?
温 ないです。鉤括弧は発話だし、括弧は内省だし、墨括弧は【速報】みたいな使い方があるし……。山括弧だけなにもないんですよね。
谷川 穂村弘の〔ブーフーウーのウーじゃないかな〕って鉤括弧?
青松 あれは鉤括弧です。〔「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」〕。
谷川 俵万智の〔「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ〕もそうか。
温 穂村弘だと、〔「自転車のサドルを高く上げるのが夏をむかえる準備のすべて」〕みたいな、一首まるまる鉤括弧に入れてる歌もありますね。
青松 あぁありますね。〔「その甘い考え好きよほらみてよ今夜の月はものすごいでぶ」〕とか。第2歌集の『ドライ ドライ アイス』までは多くて、これ僕の体感なんですけど、第3歌集の『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』になると一気に鉤括弧が減るんですよ。それはたぶん、穂村弘がそこの感覚を察してだと思うんですけど。
温 〔目覚めたら息まっしろで、これはもう、ほんかくてきよ、ほんかくてき〕とかか。たしかに。
青松 『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』は、初期の穂村弘の輝きを「女の子」を輸入することで才能を延命したみたいに言われがちなんですけど、すごいポストニューウェーブ的な技術があって、韻律面も相当アップデートされてるからああいういい歌集になったと思ってて、そこは主張していきたいですね。
谷川 でもなんか、その話があって、青松さんの鉤括弧に対する意識の話をセットで聞くとものすごくよくわかる。
温 やっぱ、鉤括弧バージョンの〔「結衣ちゃんは大丈夫だよ」と言いながら腰のあたりを這ってる光〕だと全然印象が違いますよね。
青松 やっぱここで、鉤括弧で「結衣ちゃんは大丈夫だよ」と入れると僕の言葉になるというか。それはきついっていうのはあるかもしれません。
谷川 なるほど、そうだね。
温 ここで青松輝という作者名と並んでいると、青松輝のセリフとして読まれうるっていうのは重要なポイントですよね。そうじゃないという主張はできるんですけど、現実問題そのように読まれるよね、ということが。
谷川 うん……そうなればなるほど、やっぱり〔這ってる光〕が肝なんだよこの歌は。たぶん読者が家に帰って、その後の人生を過ごす中で、この歌を思い返したときに残ってるのは〔這ってる光〕だと思う。この歌が新しい価値を生み出したのはここだし、これは新種の光の発見に挑戦した歌なんだよね。
温 そうだと思います。僕は、青松さんは光の歌人だと思ってて。
谷川 え、そうなんだ! もっと早く言ってよ(笑)。
温 青松さんは基本的に光のことを歌っている感覚があって。それこそ、谷川さんが月のことを歌ってるみたいに。
谷川 うわー、そうなんだね。そういうことなんだ!
温 もっとくだらない話をすると、青松さんの名前に入ってる「輝」が影響するんです。「青」もそうだけど。すこし品のない読み方ですけど、歌は常に名前の支配下にあって……事実としてその影響はあるよね?っていう。先に額があってから、中に入れる絵を作ってる状態だと思うんですよ。
谷川 青松さん……これ、知ってました?
青松 もちろん。
谷川 そうなんだー。
青松 もし僕が「青松光」だったら光のことは言えないですよね。あざとすぎるというか、歌の「光」と名前の「光」がぶつかっちゃうから。
温 光を光そのものとして扱うのは難しいですよね。それこそさっきの「永遠」とか「キラキラ」とかと同じで。なにかが光ってる歌は作れるけど、「光」そのものにふれることは難しい。この歌はでも、光そのものについて語ってると思うんです。結衣ちゃんが光ってる話じゃなくて、光が這ってる話だから。
青松 そこはけっこう、意識して使ってます。しかもその、いわゆる光じゃないよ、という。
谷川 新種の光ってことでしょ。
青松 そう。でも新種の光であっても、光って出せば出すほど、最終的には真っ白な光になるというか。そういうところも含めて好きで。一個のものにすべて回収されていくんですよ。それは一個の偉大な権力、短歌定型みたいなところにも結びつくんですけど。
谷川 おおー、おもしろい。えー、そうか。なるほどね。
温 おもしろい観点が色々出てきましたね。ではこのへんで、3首目も締めたいと思います。今日もめちゃくちゃ楽しかったです。おふたりともありがとうございました。
青松 ありがとうございました。
谷川 ありがとうございました。
(2023年1月21日、笹塚にて)
引用歌出典
炭酸水に入れた金魚の窒息の 話がきれい 酔ってるんだね/初谷むい、『花は泡、そこにいたって会いたいよ』
塩素(えんそ)……?/温、Twitter
フ〜フフ フ〜フ♪/温、Twitter
言うことなどないかしら/温、同上
いっひっひ、魔女だよ/はだし、Twitter
愛してる・シー・ユー・レイター・また明日 天気がよければ笑ってほしい/谷川由里子、「シー・ユー・レイター・また明日」
なほもぼくは衝動買ふよその椅子と椅子にまつはるすべての日々を/佐原キオ、「みづにすむ蜂」
立っているからだが座るまでにある無数の座る以外の行為/涌田悠、「こわくなかった」
「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」/穂村弘、『シンジケート』
「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ/俵万智、『サラダ記念日』
「自転車のサドルを高く上げるのが夏をむかえる準備のすべて」/穂村弘、『シンジケート』
「その甘い考え好きよほらみてよ今夜の月はものすごいでぶ」/穂村弘、『ドライ ドライ アイス』
目覚めたら息まっしろで、これはもう、ほんかくてきよ、ほんかくてき/穂村弘、『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』