りんてん舎歌会記(2019年10月5日)

歌会記

 歌会の楽しさは評にあると思う。

 短歌には評という文化がある。他の界隈でも評論や批評は存在するが、短歌の評はそれらと比較してやや独特だ。評論はジャンルの中でも限られた人しか行わないけれど、短歌の評は作者、あるいは場に参加する人の多くが行っているように見える。もしかして歌会というものがあることの、賜物か弊害かはともかく、影響かもしれない。

 最近、短歌は馬みたいだと思っていて、それで言うと、他のジャンルで言う評論とは客席に座って馬の走りを終わりまで眺め、それからコメントを付けていくことだと思う。それに対し、短歌の評は実際に馬に乗ってみて、ひととおり走る必要を伴う。それも走ってみたあとに下馬して所感を述べるというよりは、走りながら「この馬は、直線は強いけどカーブに弱くて、でも毛並みがきれいで、心は穏やかだと思います、いま気づいたけどたてがみが長いです」みたいなことを息を切らしながら言う感じ。「評論家」って、「自分は安全な場所に立って、外野からわかっていないことを言う輩」を指す語として扱われることがあると思うけど、短歌の界隈で「評者」と言ってもこのニュアンスはあんまり成立しない。乗れない馬にも無理やり乗って、もっと別の騎手ならスマートに乗れるのに、馬ごめん、と唱えつつ、抵抗されながらも必死で乗りこなそうとする様子は、ちょっと気軽にイジれる感じではないから。

 三鷹に「りんてん舎」という古本屋さんがあって、そこに歌会をしに行きました。「りんてん舎」店主の藤田裕介さんも参加されていて、古本の、よく見ると大きな棚を藤田さんが端によけてくれて、輪になって歌会をするという、すごく贅沢なシチュエーションでした。その様子を記事にしてお届けします。ほんとは全部書き起こしたらちょっとした卒業論文くらいの分量になってウケたのですが、さすがに多すぎるので一部抜粋にしました。

(記事構成・編集=温)

参加者

相田奈緒、温(記)、伊舎堂仁、椛沢知世、谷川由里子、土井礼一郎、ながや宏高、原田彩加、藤田裕介、睦月都(司会)、吉田恭大

詠草

牛乳をこぼせばうっすら透けていてほんとはやめたいんだ言い訳

フランソワルトンのような横顔の何でもいいから何か喋って

大丈夫、犬のかたちをしたものがくるから君は触ってて良い

てのひらにおとうとの棲む丘はあり手を叩こうとすれば手をふる

甘栗をティッシュに並べ雨の日の旅番組をみる 外も雨

悲喜たちのバビーン 鮭もまた同じ 崩れるというてんではおなじ

#どうして死ぬんだろう僕たちは

空腹の体のままで文庫本握っていたら温まる紙

五年後も思い出せそう 信号は音叉のごとく青を点けたり

木漏れ日をこぼして遊ぶ木々たちに混ざってぼくも両手をかざす

薄明かり――といふ時間に静止する日曜始まりのカレンダー

歌会記

睦月 本日はお集まりいただきありがとうございます。それでは、11首ありますので、点数の多い歌から評をしていきます。

薄明かり――といふ時間に静止する日曜始まりのカレンダー

睦月 6票入りました。まずは票を入れた人たちの評をうかがいたいと思います。

相田 はい。ええと、薄明かりという一定の明るさを持つ時間に静止する日曜始まりのカレンダー……月間のカレンダーですね、壁に掛けるタイプのカレンダー、があって。カレンダーってみずから動く物ではないのでわざわざ「静止する」と言う必要はないんですけど、たぶんカレンダー以外のすべての物も止まって見えているんだろうなという風にこの歌は読めて、その情景のよさで取りました。わりと字面で惹かれたところもあって、「薄明かり」のあとの記号、ダーシのつー、という流れ方が意外に嫌味がなくていいんじゃないかなと感じています。

睦月 ありがとうございます。原田さんはいかがですか。

原田 情景が写真みたいで、部屋の中に白いカレンダーが浮かび上がってくるのが見えてくる感じでした。背景に日常はあるけれど、この時間だけは止まっているような……「静止する」がいいのかな。

椛沢 わたしも、情景がまず浮かんで、それが好きだなぁと思って取っています。薄明かりの中には他にも物があると思うんですけど、カレンダーが白いので特に際立って見える、白くぼうっと光って見えている感じ。あとあの、「薄明かり」のあとの棒……棒、さっき相田さんがなんて呼んでたか忘れちゃった(笑)、これもよかったです。

ながや そうですね。カレンダーというのは人間が作った社会のためだけのルールです。あってもなくても地球は回るというか、本来、世界とは関係のないものなんです。でも人間の社会は絶えずカレンダーで動き続けています。対してこの歌の薄明かりというのは社会のためではなくて、個のための時間です。「動いている社会」のなかで「止まっている個」、この対比がいいと思いました。

睦月 そう言われてみるとたしかに、暦って人間が人間のために作った制度ですよね。社会と世界、という対比はこれまで出てこなかった視点で新鮮に思いました。藤田さんはどうですか?

藤田 僕も明け方の時間を想像していたんですが、「静止する」という語によってなにか時間の外に置かれたような。「静止する」と言ったときに、歌全体の色の彩度が下がっている感じがするんですよね。

睦月 彩度が下がる感じ、これが明け方の印象につながっているのかなと思いました。同じ薄明かりでも、夕暮れ時だと何かうごめく感じが出てくるから、もっと静かな朝の感じ。票を入れていない人たちはいかがですか?

谷川 文字の繋がり方が物語になっていて、伝えようとしている世界が目で見てわかりやすいなというのが初読の印象でした。「静止する」も「日曜始まり」もとっぴなことは言っていないんですよ。たとえば水曜始まりのカレンダーって言われると、海外のどこかには、そういうのがあるのかなってなるんですけど……普通のことがあえて言われると、カレンダー以外にも、部屋の空気とか、カレンダーを見ている人の気持ちとか、そういう他者が静止を確認できないところまで静止しているんだろうなと思って読みました。

伊舎堂 「――」使いがうまいなぁと思いました。普通に止まるより、めちゃくちゃ走って来てピタッと止まるほうが〈止まった〉感じがするじゃないですか。初句ってけっこう音が余っていてもいける場所だと思うんですけど、「――」をそこに置いてくるっていう……。カレンダーも部屋も静止する。その覚醒のなか見えたものが「日曜始まりのカレンダー」。もう作者はここから一文字も推敲する気ないだろうな、というか(笑)もしもこの歌会でいろいろ言われても、いやもうこれは動かないっすよって自信満々に言われる気がする。「日曜はじま/りのカレンダー」みたいにハメられまでしたら感服しますよ。変な時刻に起きてぼうっとしていた気持ちがピッとカレンダーによってまとまる。読んでいくと、日曜、とあるので一瞬「今が」日曜だと思うんですよ、そしたら日曜始まりのカレンダーというだけだった。体言止めで、バンって……。そこがなんか決まってんすよね。一個一個。まぁ絶対に直さない歌ができてよかったね……って、最後に嫌味を言って終わります(笑)

睦月 はい(笑)。ありがとうございます。最初に相田さんが、このダッシュは嫌味なく読めた、と言っていたのが気になっていて、わたし自身、記号が出てきたら警戒するんですけど、これはそう読まれなかったのがいまの伊舎堂さんの評に関連しているのかなと思いました。

ありがとうございました、では次の歌に行きます。

甘栗をティッシュに並べ雨の日の旅番組をみる 外も雨

睦月 4票入っています。吉田さんお願いできますか。

吉田 そうですね、甘栗のチョイスがまずいいな、と。そこらへんで買おうと思えば買えるんですけど、特別なものを見出そうとすれば横浜とか中華街とか渋谷とか、持ち出すことはできるんですよね。日常からちょっとずれているけど手に入りやすい物として、後半の「旅番組」と呼応しているのがいいなと思いました。テレビの中でロケに行っていてそこには雨が降っている――、それを見ている――、その外も雨が降っている――という、外・部屋の中・テレビの中が入れ子構造になっていて、雨と雨との間の部屋に自分が取り残されている、テレビを見るしかないような手持ち無沙汰な時間。そこに甘栗を……別にティッシュに並べる必要はないんですが、そういう時間を持て余している感じが甘栗の中にも出てきていて、いいんじゃないかなと思います。

睦月 ありがとうございます。伊舎堂さんはいかがですか。

伊舎堂 なんですかね。おもしろいです。七五調で「旅」と来たら「出る」に続いてしまうんですよ。さまぁ~ずの大竹が「悲しい俳句」っていう本を出しているんですけど、そこに「アリの巣をふさいだまんま旅に出る」って言う句があって(※1)、休みの日に夕方の4時まで寝てたとかのダラけ感を、たぶんお笑いに初めて持ち込んだくらいダラダラした芸人である大竹でも、七五調の勢いを得ると「旅に出て」しまう。短歌で旅に出ないのは難しいわけですよ。我妻さんの「あの馬鹿が旅に出るなら」ですら旅に出るって言っちゃってる(※2)。七五調はそういう「旅に出る」性を後押しする装置だから、「旅に出ない」で踏ん張るのは難しいんですけど、「旅…番組をみる」みたいにかわす、。吉田さんはこれから剥かれる栗、も想定してましたけど、「甘栗」という字を見ると2019年の僕は「甘栗むいちゃいました」を想像するんですよ。もうイメージの中で勝手にむかれてる。「甘栗むいちゃいました」がティッシュの上に並べられているピトピト感と雨の雰囲気がマッチしていておもしろい。で悔しい。競争相手がここにいる、っていうか。

睦月 わたしも「むいちゃいました」が先に出てきた……。形もドロップ型なんだけど、雨と近すぎはしない距離感がいいですね。そんなに狙っている感じでもなく、絶妙な甘栗のポジション。ながやさんいかがですか。

ながや そうですね。一人称視点が光っている歌だと思って、この歌は主観で始まって主観で閉じているんですが、その視線誘導っていうか、その作中主体が見ている目をそのままもらう感じっていうんですか。それが自然でした。僕も「むいちゃいました」だと思ったんですけどなぜだろう、湿ってる感じなのかなぁ。ティッシュに並べるっていうのもちょっと、湿気を吸ってくれるっていうか……。

 吸ってくれる……?

ながや ……別に意味はないんですけど、その無意味さと、小さな主観の中で起こっていることの、「箱」感を感じる歌でした。

睦月 最初に「雨の日の旅番組」だけ読んだときに、“短歌っぽい”なと思ったんです。外の雨か、テレビの中の雨か、あえて確定させずにどちらにも接続できるようにしておく。そうしてふわっと景色を二重写しにしておくことでなんとなくポエジーを醸し出す……ちょっと嫌な言い方しましたけど(笑)、まぁそれでいいわけですよね、短歌においては。でもこの歌は、最後の5音で「外も雨」を確定してきたのが面白くて。その5音で他のことも言えたはずなんですよ。そこで外の雨に戻してくるのがすごくよかった、そういう世界の生成の仕方が非常にいいです。

吉田 よく考えてみると「むいちゃいました」のほうがいいですね。あれパウチされてて、包装から取り出しにくいじゃないですか。だから一気に取り出しておくんだけど、そのときに直接机に置くんじゃなくて、ちょっと気を使ってティッシュに、っていう……。そう言えば「雨の日の旅番組」っていうモチーフ自体が最近ですね。「世界の車窓から」は雨が降らないんですよ。あれは世界の風光明媚な景色を紹介する番組なので、雨じゃないんです。「モヤモヤさまぁ~ず」とか「ブラタモリ」とか、歩く人間のほうにフォーカスが当たっている番組だと雨が降っていてもロケをやる。

睦月 ありがとうございます。では、次の歌に移ります。3票歌が3首ありますね。

てのひらにおとうとの棲む丘はあり手を叩こうとすれば手をふる

椛沢 手を叩こうとするのが主体、手を振るのがおとうと……だから手を叩こうとしても叩けない。おとうとは棲んでいるので、手を振る以外にもいろんな生活をしていて、手を叩こうとしたときだけこちらを見て手を振る。その感じが面白いなと思いました。

谷川 歌の中に何回かコール・アンド・レスポンスがあって、上の句と下の句、下の句の第4句と結句がそれぞれ呼応しているんです。そういう対応関係が面白かったですね。……おとうと、めっちゃかわいいよね、この手をふるおとうとね。何も言わないんだけど、わーって手をふってて……非常にかわいらしい。

睦月 かわいいですよね、かわいくもありこわくもあり。わたしもこの、小さく折りたたまれていく構造が読んでいたときに気持ちよかったので、コール・アンド・レスポンスがいくつかあるという今のご説明がよくわかりました。温さんはどうですか。

 「おとうと」の謎な感じ……。これが漢字で「弟の棲む丘」と言われると、いやそんなことは起こらないと拒否できるんですが、ひらがなで「おとうとの棲む丘」と言われると、そういうこともあるのか……と信じてしまう。「おとうと」の音も「おと・おと」って繰り返している、妖怪というか妖精というか、ふしぎな生き物として成立しうる音なんですよ。「ぺがさす」とか「かまいたち」とかと同類の……。だからてのひらに「おとうと」が棲んでいることも受け入れられる。で、妖怪辞典だと、だいたいその妖怪の習性が書かれているんですけど、この「おとうと」の習性は「手を叩こうとすると手をふる」なんですよ。それがめちゃめちゃおもしろい。「棲む」って言い方も、「住む」と比べると棲みついた……いつの間にか棲みついた感じ。妖怪が憑いてしまったような。全体的に、不穏っちゃ不穏だしかわいいっちゃかわいいし、そういう雰囲気を提示されたのがすごくおもしろかったです。

相田 わたしは怖いほうで採れなくって……。おとうとではなく、この人が。この人、何度も叩こうとはしていて、何度も寸前で、おっと、……って手を止めてるんですけど、あの、ぎりぎりだよ、と(笑)。恐怖で取れなかったです(笑)

睦月 「手を振る」ってもちろん挨拶の意味もありますけど、海や山で遭難した際のSOS信号でもありますよね。この「おとうと」が手を振っているのも、実は救助を求めているのかもしれないな。

空腹の体のままで文庫本握っていたら温まる紙

伊舎堂 短歌を読まされてるときに起こると悔しい、「そんなことないと思うけど、あなたがそう言うんなら、そうなんでしょうね」が今回も起こりました。そんなことないんだけどな、こう言われたら笑うなぁ、っていう。因果関係はほとんど明確ではないんだけど、なんでしょうね、じゃあ満腹だと温まらないのか、とか、温まる紙、から把握し直すのに、空腹だったから、まで戻る。いや言ってることは一個もわかんないんですけど、今後自分はしばらくこの歌を記憶するだろうなと思いました。

谷川 「体のままで」が面白くて、「空腹で文庫本握っていたら」でも意味としては通ると思うんです。でも「空腹の体」って言われると、心と体をひとつひとつ別のものとして扱った上で、この歌のなかでは体がどんと出てくる感じがする。「空腹の体のままで」という言い方に工夫を感じました。それから結句の「温まる紙」というのもよかったです。空腹の体から紙にじわじわ熱が移行するのも心を分かち合うようで好きでした。紙に心が宿っていくような。紙という物体にエネルギーを注ぎこめるとしたら、すごく元気な人のエネルギーではなくて、空腹の、弱った人のエネルギーだと思うんですよ。握るって言い方も、その感じがあって。

睦月 あ、この「握って」は、文庫本を読んでるイメージですか?

谷川 読んでいるのかなって思いました。

吉田 わたしは読むのではなく握っていてほしくて、「読む気力もない」、「瀕死の人間が文庫本を握りしめたまま倒れている」くらいがちょうどいいなと思います。この歌でおもしろいのが、「文庫本」を「紙」と言い換えているんですけど、「紙」にグレードダウンさせているのが容赦ないですよね。無機的なものに捉え直してしまう。それがいいなと思います。

五年後も思い出せそう 信号は音叉のごとく青を点けたり

原田 これは……何て言うか、好きなんですよね(笑)。信号って無音なので、それが音叉のよう、つまり音が聞こえてくるくらい、神経が研ぎ澄まされている感じ……。

相田 深夜、信号が3つ先くらいまで見えていて、すごい微妙な時間差で次々と青になっていく景が、共鳴の感じで音叉と喩えられたのかなと思います。五年後も思い出せそう、は、そう思ったことはほんとうなんだけど、実際思い出すかはわからない……。

土井 そうですね、喩として持ってくる「音叉」のすごさですよね。LEDの光って微妙に揺れている感じがして、それが音叉の揺れと繋がる、すごい比喩だと思って取りました。それに対して、「五年後も思い出せそう」っていう前半は……非常に既視感があって、いや、やめてくださいって思っちゃいましたね。これどう、どうしたもんかなと思って。読むときに上の句は捨てちゃいました。

伊舎堂 これは上の句がいいと思うんですけどね。なにかを「五年後に思い出せそう」って思った、その瞬間に何者かを立ち会わせたくて、信号を連れてきたような。「五年後」って数字で思うのもすごいですよ。三日前とかじゃないから。「五年後」って断言は強い。

 「五年後」っていうのはたぶん適当だと思うんですよ。「八百万の神」とかいうときの数え方……ほんとは800万じゃないけどやおよろず。五年後も、ある程度先の未来、という。ほんとうに思い出せるかはともかく、この時は強烈にそう思ったんですよ。この修辞の無さは既視感のある表現として読むよりは、酔っ払いが言っているくらいに聞いたほうが、

睦月 酔っ払い?

 いや、いい意味での酔っ払い……。

相田 酔っ払いというか、「五年後」っていうのはその時のテンションで言っているんだと思います。でもちょっと冷静な自分もいるから、「思い出せ『そう』」という若干の留保はしている。そこは誠実だな、と……(笑)。

#どうして死ぬんだろう僕たちは

 「#」は「ハッシュタグ」だと思います。いったん音数の欠落の話は置いておいて、意味の話をします。これは、Twitterに堂園さんの「どうして死ぬんだろう僕たちは」(※3)が発見され、流行した世界に誕生したハッシュタグだと思うんですけど、そう想定した時にものすごく不快な気持ちになったというか、「#どうして死ぬんだろう僕たちは」がハッシュタグ化されて、Twitterの画面上で青字になって、これを押すと連綿とこのタグを付けて面白くない大喜利をしているツイートが見えることで、こう、「終わったな」という感じになりました。

睦月 それは、この歌に対する嫌さではなくて、想定されるその状況に対しての嫌さ?

 そうです。これまで短歌が構築してきた言葉と言葉の作用による磁場が、非常に上手にTwitterのノリに接続したというか、そういうエンジンが出来てしまった状態だと思って、みんな「#どうして死ぬんだろう僕たちは」のもとにツイートできる……このようにして使い潰されていった数々を思い出して、それが短歌でやられることを想定していなかったので、そのショックが大きかったので、取りました。

睦月 言っていることはわかるんですけど、それで嫌な気分になるのは……今日、堂園さんがいない中でそれを他者が勝手にやることについては、責任の問題として、どうかなとは思いましたが……いかがでしょうか。

谷川 「どうして死ぬんだろう僕たちは」が下の句としてあって、上の句に何が付いても成立するという構造なのかなと思いました。ハッシュタグのツイートが上の句になるような。うーん。わたしは読めていないですが、この下の句を持ってきたことに、何らかの思い入れがあってほしいと思います。

睦月 ハッシュタグの形を取った付け句ですよね。ここだけ切り取られると、もともとの上の句の存在がある意味否定されるところがあって、「秋茄子を両手に乗せて光らせて」じゃなくてよくなってしまう。この歌に対して批判的か、悪意的であるように感じます。それをこの形でやることに効果はありつつ、意図がわからないからどこに効いているのかわからない。

 作者が特定できないことはむしろ読みどころだと思っていて、実際のハッシュタグも発祥が誰なのかは特定しづらいですよね。作者や作者の意図が不明で、イジっているようにも見えるし、いいフレーズとして称賛しているようにも見える、その不明瞭さはまさにハッシュタグの雑然とした状態のうすら寒さに通じるんじゃないかと思っています。

牛乳をこぼせばうっすら透けていてほんとはやめたいんだ言い訳

土井 上の句は歌として面白かったんですが……納得感もあって。下の句はちょっと既視感がありました。

伊舎堂 歌全体の文体でも「言い訳」を再現しているというか。たらたらたらたら言って……「いや、ほんとやめたいんすよ」という。言い訳をやめたい話をするのに最適の文体ですね。実際には1行なのに、読んでで苦痛になるくらい……なっげえな、っていう(笑)。定型に乗ってるのに。……だんだん面白くなってきたな。

睦月 喋ってるうちに(笑)

伊舎堂 歌会マジックですよ。……「牛乳」とかもいいのかな。給食で出てくるし。飲めなかったら怒られたりするし、言い訳性(せい)が含まれてる飲料。

睦月 「牛乳をこぼせば……」という情景から「ほんとはやめたいんだ……」と心情に入るんですけど、この1.5段くらい飛んでいる感じにパワーがありますね。

フランソワルトンのような横顔の何でもいいから何か喋って

谷川 フランソワルトン、フランソワルトン、は何でしょうか。動物? わからないけど、名前がすてきですね。響きがよい。何に対して「喋って」と、言ってるのかわからないけど、人間なのかな……。でも「何でもいいから」って言われると人間じゃないのかな。喋らない何かに向かって、喋ってと語りかけるのは単純に会話を楽しみたいのではなくて、許されたいとかここにいることが不安とか、そういう感情が想起されます。でもフランソワルトンという響きが良いことで、不思議な読後感がありました。

吉田 フランソワルトンをググったんですけど、その時点で感情がマックスになってしまって。

睦月 わかります(笑)

吉田 えっ、猿だったの? っていう。これが画家の名前とかだったらつまんないじゃないですか。それが猿って……。でも、そこが瞬間最大風速で、そのあとまで続かなかったですね。

谷川 (ググって)へー……別名もかわいいね。フランソワリーフモンキー。

睦月 かわいい。結構、真剣にウィキペディアを読んでしまって……。

吉田 中国では薬用にされるという。

 猿が?

吉田 漢方薬みたいな。

睦月 (フランソワルトンの顔を見ながら)上品な顔つきをしてますよね。

 「フランソワ」っぽい顔。

ながや かっこいいですね。

大丈夫、犬のかたちをしたものがくるから君は触ってて良い

ながや 何が「大丈夫」なのか、「犬のかたちをしたもの」とは何なのかが読みどころかなと思いました。でもこれは歌の中で明言されていません。犬だとしても「犬のかたちをしたもの」って言っていいわけですし……。犬のかたちをしたものがくる、から大丈夫なのだとしたら、「君」は「犬のかたちをしたもの」じゃないもの、がくることを心配をしているのか……。難しいですね。歌に対して好感は持っているんですが、冒頭に挙げた謎が解決されない。「大丈夫」って言っている人と「君」との関係を見せてもらったということなのかな、と思いました。

睦月 犬ってそもそも、猫とかと比べて形が一定じゃないので、ちょっと読みが迷い込みやすいですよね。

土井 これ、「大」「丈」「夫」の文字それぞれが、「犬」のバリエーションに見えますね。

睦月 あー……!ほんとだ!

土井 ……犬のかたちをしたちょっと違うものが、ベルトコンベアみたいなものに乗せられて次々来る。

 ベルトコンベア!?

土井 という見方に立つと、「犬のかたちをしたもの」は取りやすいですね。

悲喜たちのバビーン 鮭もまた同じ 崩れるというてんではおなじ

睦月 ご存じの方がいたら教えてほしいのですが、「悲喜たちのバビーン」は何かの演目ですか? 「悲喜たちの」にそんな印象があって。さっき調べたら「バビーン」っていう地名が出てきたんですが、でも、ここに出てきたら変な擬音にも見えますね。「ガビーン!」みたいな。そうすると「悲喜たちのバビーン」とは……。そこでもう続けられなくなるくらい語への負荷が強いのですが、それを乗り越えても「鮭もまた同じ」、「崩れるというてんではおなじ」と第2、第3の敵が現れる(笑)。ここまで行ってると、真剣に取らずに面白がれる感じですね。「悲喜たちのバビーン」のあとにいいことを言われたら嫌だったんですけど、全部わからないのはおもしろいな、となりました。

谷川 うーん、「バビーン」は「バビーン」にしか見えないな……。漫画の効果音みたいな。

伊舎堂 狂ってる度だと「犬のかたち」の歌のほうが狂ってるんですよね。この歌は「バビーン」の後に理屈をつけようとするから。意味わからないながらも安心できちゃう、ことがこの歌の望んだところなのかどうか、っていう。

谷川 わたしは「犬のかたち」のほうが読めちゃう感じがする。「バビーン」のほうが「バビーン」な感じがして面白い。

伊舎堂 ほんとうにこの作者は「バビーン」とか「テッテレ~(笑)」とか好きだなぁ、と。

 …………。

谷川 説明の仕方がおもしろくて、「鮭もまた同じ」ではまだ伝わらなくて、これじゃ伝わらなかったね説明してあげるよ、で「崩れるというてんではおなじ」って、うん……(笑)確かに「鮭もまた同じ」よりは文字数が多いんだけど。

相田 自信満々な説明ですよね。何も伝わってない……(笑)

睦月 その自信が、「これで伝わる」という自信ならこの歌を信じるんですけど、どっちかというと誰にもわからせない方向で試されている感じがして、それがちょっと嫌でしたね。

藤田 「感じ」が「かんじ」にひらがなになってて、1字空け以降説明するつもりがなくなってる感じがしますね。力尽きてる……。

木漏れ日をこぼして遊ぶ木々たちに混ざってぼくも両手をかざす

藤田 混ざってと言うくらいなので、ちょっと近づくというよりは、林の中に分け入って、という感じですかね。

吉田 全体的に「こぼす」とか「遊ぶ」とか、無邪気すぎて好みではないのですが、主体の無垢さというニュアンスは統一されていて、効果としては大きいのかなと思います。

睦月 無邪気さについてはここまで来るといいような気がする。木々たちが遊んでいるところに、いーれてって子どもみたいに混ざりに行くという。魅力的ですね。あとは好みの問題なんですが、「両手をかざす」という表現が気になりました。木々たちと同化するように見せかけて、やっぱり「両手」を持つ人間である……というところは動かないのか、と。もっと木に寄ってほしかった。

相田 人間のまま混ざっている感じが確かにして、そこが独特ですよね。適切なたとえじゃないかもしれないけど、イギリスの児童小説みたい。自分が妖精というより、妖精の世界に行って戻ってくる子ども。

谷川 わたしは、混ざって両手をかざす感じがけっこう好きですね。別に木にならなくていいし、人間は人間でいい、好きなスタンスなんですけど、「遊ぶ」という木の擬人化はちょっと気になりました。木は木でよいのに人間っぽい印象を持たされてしまうと……。それがやりたかったのかもしれないけど。

作者発表

睦月 それでは、お疲れさまでした。これで全首終わったので、作者を発表します。

薄明かり――といふ時間に静止する日曜始まりのカレンダー 睦月都

甘栗をティッシュに並べ雨の日の旅番組をみる 外も雨 谷川由里子

てのひらにおとうとの棲む丘はあり手を叩こうとすれば手をふる 土井礼一郎

空腹の体のままで文庫本握っていたら温まる紙 相田奈緒

五年後も思い出せそう 信号は音叉のごとく青を点けたり 藤田裕介

#どうして死ぬんだろう僕たちは 伊舎堂仁

牛乳をこぼせばうっすら透けていてほんとはやめたいんだ言い訳 椛沢知世

フランソワルトンのような横顔の何でもいいから何か喋って 原田彩加

大丈夫、犬のかたちをしたものがくるから君は触ってて良い 吉田恭大

悲喜たちのバビーン 鮭もまた同じ 崩れるというてんではおなじ 温

木漏れ日をこぼして遊ぶ木々たちに混ざってぼくも両手をかざす ながや宏高

ありがとうございました!

※1 アリの巣を

   ふさいだまんま

   旅に出る

   (大竹一樹、『さまぁ~ずの悲しい俳句』、宝島社、2010年)

※2 あの馬鹿が旅に出るならぼくたちは旅には出ない 出ないなら出る(我妻俊樹、「率」10号・我妻俊樹誌上歌集『足の踏み場、象の墓場」、2016年)

※3 秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは(堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』、港の人、2013年)

後記

 以上、歌会記です。……そういえば、この歌会は睦月都さんと吉田恭大さんによる「うたとポルスカ」という一箱書店&ウェブ連動企画の存在が最初期に発表された場所でした。短歌同人誌の本屋というアイディア、需要があるし嬉しいし、やっぱり手に入ることに価値があるし、とてもいい話だと思ったのを覚えています。今度、ぜひ一緒に行きましょう。

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