うたポル歌会記―初谷むい、丸田洋渡、温(2021年11月7日)

歌会記

参加者

初谷むい(はつたに むい)
@h_amui 歌集に『花は泡、そこにいたって会いたいよ』(書肆侃侃房)。短歌同人誌「ぬばたま」所属。

丸田洋渡(まるた よっと)
@qualia_of_sky 1998年生まれ。短詩系webサイト「帚」運営・作品発表(俳句)、短歌ユニット「第三滑走路」参加。

温(あたむ)<司会・記>
@mizunomi777 「GEM」同人、「うたとポルスカ」運営。

詠草

ムーミンが照れたみたいな色の空 骨まで照れてしまったような
(温)

潜水みたいだひとを好きになるのは酸素を忘れるのもすてきだね
(初谷むい)

季節考 後ろからコーヒーが来て前から紅茶が来た 窓に風
(丸田洋渡)

歌会記

 お集まりいただきありがとうございます。本日は、僕が読者としてとても好きな歌人お二人にお声がけさせてもらいました。どうぞよろしくお願いします。

初谷 よろしくお願いします。

丸田 よろしくお願いします。

 それではさっそく、一首目から始めていきましょう。

ムーミンが照れたみたいな色の空 骨まで照れてしまったような

初谷 〈ムーミンが照れたみたいな色の空 骨まで照れてしまったような〉。すごい好きな歌でした。そもそもムーミンが照れるって、照れるというのはほっぺが赤くなるってことだと思うんですけど、基本的には人間の動作というか。ムーミンって真っ白で、「実は舞台が核戦争後の世界で……」って言われるくらい、生物っぽさがないんですけど。

 そんな都市伝説があるくらい。

初谷 そうそう。そんなムーミンが照れるというのが、異質だけど、肌の白と照れた赤の対比があってすごくおもしろいです。それで、下の句の「骨まで照れてしまったような」は、誰の骨なんだろう。ムーミンの骨だとするとイメージが掴めなくて、それよりも人間の、自分の骨が意識されました。自分の内側で、体温がガーッと上がって、身体が熱くなって、結果としてほっぺが赤くなるっていう。だから、最初は視覚的に空の話をしていたのに、最終的には自分の身体に潜り込んでくるという体感があって、よかったです。

 ありがとうございます。丸田さんはいかがでしょうか?

丸田 実景ベースでいうと「ほんのり赤い空があるなぁ」くらいの情報量しかないんですけど、記名の歌会ということもあり、作り手の意識を強めに考慮して読んでいこうかなと思います。普通はほんのり赤い空を見たとしても、「ムーミンが照れたみたい」とは言わないと思うんですよ。何段階か飛んでるフレーズなので。ちょっとへんてこなことを、作り手というか主体がしようとして、「ムーミンが照れた」という言葉になったのかなと。新しい比喩で良いと思います。ただ、若干勿体ないような気もして。というのも、「骨まで照れた」の比喩が強くて魅力的で、折角の「ムーミン」が「骨」に飲み込まれてしまった気がしました。「骨まで照れた」というパワーワードのダシに使われているような。

 なるほど。

丸田 どちらも良い比喩なので、ひとつずつで二首作れるんじゃないかなと思いました。それで、もう一つ触れておきたいんですが、この歌には「照れた『みたいな』」と「照れてしまった『ような』」の二つが連続していて。僕だったら「みたいな」で重ねるところ、この人は定型に沿うんだ……という。「骨まで照れた」とか変なこと言うわりに、律儀というか、いい人なんだって思いました。根が優しい人が変なことをしようとした結果、隠しきれずに本性が出た、みたいな。

 ちょっと照れますね。定型に沿うのは、優しくていい人なんですか?

丸田 いい人って、ちょっと変なこと言っちゃったんですけど(笑)。僕の場合は、内容が変ならリズムも変なのがぴったりくると思ってて、「ムーミンが照れた」とか「骨まで照れた」と言うくらいなら、リズムももっと外してもよさそうなのに、っていう。

 内容の変さと韻律の変さが、一致していたほうが読みやすい?

丸田 そうですね。破調も、内容が変なら「そうだよな」って思います。逆に内容が普通なのにリズムが変だと、ちょっと合ってないかもっていう。

 なるほど、けっこう新しい視点でした。初谷さん、リズムの話についてどう思いますか? 僕は初谷さんもリズマーだと思っていて。

初谷 リズマー?(笑)

 定型に沿う歌、沿わない歌についてどんな印象を持っていますか?

初谷 うーん……、短歌というものは、定型を守りなさいよという神からの圧が作ってると思うんですけど、この歌はそれに従ったという感じはしなくて。上句が持つ発話感というか、外側の世界への発信っぽさに対して、下句は内側の世界に方向が変わっていて、「みたいな」と「ような」はそういう使い分けとして効いていると思います。

 一首の中に切り替えがあるというイメージですね。

初谷 丸田さんの言っていた、内容がハチャメチャなら破調が合うとかは、あんまり考えたことがなくて、私にも新しい視点でした。私はたぶん、短歌を「長さ」くらいでしか見てなくて。五七五七七ってだいたい、だいたいこんなもんだろうっていう長さ、があって。そこに合わせて頭の中で、言葉のリズムがいいっぽいように並べるみたいな。だから、定型じゃないと思ったら定型じゃん!すごい!ってなることもあるし、七が一個多い!みたいになることもあるし……。

 わかります。わかりますっていうか、初谷さんはそうじゃないかって気がしてました。たぶん丸田さんは逆なのでは、と思ってて。

丸田 そうですね。音数で計るタイプなので、文字面の長さというのを聞いて、すごく新しいです。ちょっと、新しい歌作れそうだなって思いました。

 100メートルを走るとして、丸田さんはどこではどういうステップで走って、どのように100メートル地点に到達するのか、緻密に計算されている印象が読者としてはあります。一方で初谷さんは、「基本的に走ってる」みたいな。場合によっては120メートル走るかもと思っていました。だからいまのお話はすごく納得です。リズムの話は、ぜひこの三人で話したいトピックだったのでうれしいです。そのほか、何か触れておきたい点はありますか?

初谷 なんかあの、色の話で。「ムーミン」と「骨」ってどちらも白色で揃えられているのが、おしゃれかなって思いました。色を統一すること、私は歌を作っているときには意識するほうなので。「ムーミン」の白と「照れたみたいな」の赤っぽい感じと、「骨」の白。だからたとえば、「ムーミン」じゃなくて「アンパンマン」だったらどうなっていただろうって気になります。

 「アンパンマンが照れた」だと、色の感覚がすごく違いますね。

初谷 ムーミンはダシに使われているかもしれないけど、下句をすてきに見せる反射材として活躍しているんじゃないかなって。

 いいダシが取れてる?

初谷 いいダシが取れてる。

 丸田さんは歌作のとき、色について意識してますか? っていうか、してますよね?

丸田 なんとなくはするんですけど、そこまででは……。色で連作を作るときくらいですかね。

 あ、そうなんですね? 僕は丸田さんの〈薔薇と蜂/製氷室に蜂がいる/薔薇の溢れる製氷室に〉(「水天」、『第三滑走路8号』)がすごく好きで、色の選択がきれいだと思ったんです。色の引き算というか、見せたい組み合わせを目立たせる意識がとても強い人なのかなって予想していたんですが。

丸田 そう言われると、そのままそう思っていただいたほうがいいんですけど(笑)、作者としてはそこまで考えてなかったです。言葉のイメージとか雰囲気を、直感で、合いそうだから組み合わせてみよう、みたいな。文字の見た目とかも大きいです。その歌は、既に文字もイメージもかっこいい「蜂」と「薔薇」に、「製氷室」を差し込んで、三すくみっぽくしたら凄いことになるんじゃないかと思って作りました。

 なるほど。じゃあ単語レベルの美意識があって、結果的に色がきれいに出てるのかもですね。初谷さんが評されたような色の感覚について、僕はすごく意識するほうだと思うんですが、それはたぶん初谷さんから学んでいるところが大きいです。たとえば初谷さんの〈炭酸水に入れた金魚の窒息の 話がきれい 酔ってるんだね〉(「とおくて甘いきみの原液」、『花は泡、そこにいたって会いたいよ』)という歌が僕はすごく好きなんですけど、「金魚」って語が色としてお得って感覚わかります?

初谷 わかります、わかります(笑)。

 字面には「金」があって、でも実態としては「赤」があって。シニフィアンとシニフィエのそれぞれが別々の色を連れてくるから、一語なのに二色が混ざるカクテルみたいになる。しかも、それを透明な炭酸水に入れるという……。僕はたぶん、そういう歌から短歌における色づかいを学んでいる気がします。それではこの辺で、二首目に移りたいと思います。

潜水みたいだひとを好きになるのは酸素を忘れるのもすてきだね

丸田 〈潜水みたいだひとを好きになるのは酸素を忘れるのもすてきだね〉。初谷節、と言いますか、要素も大まかな流れも初谷さんらしいもので出来ている歌だなと第一印象では思いました。で、よく読んでいくと、分かりやすいようで分からない、分かっていないところが多くて。人を好きになるのは潜水みたいだ、っていうのは、好きな人と一緒に愛の中に沈んでいく、複数人のことなのか、好きという感情で悩んだり嬉しかったりする、自分の心へ潜っていく独りだけのの行為のことなのか。これが「溺死みたいだ」的な簡単でチープな表現に収まらなくて、不思議で良いなと思いました。
あと、潜水って、終わりを前提としてる行為だと思うんですが、もしこの歌でその終わりが来るとしたら、「好き」の気持ちが終わることを指すのか、本当に死んで浮上して、ってことになるのか……死んじゃったらどうなるんだろう、と素直に思います。死ぬほど好き、っていうのは良いことなんですけど。潜水のその先が見えてこないのが良いなと思います。「酸素」の言い方も上手くて、ふつうなら「呼吸を忘れる」だと思うんですけど、呼吸よりひとつ手前に戻ってて。

 ありがとうございます。溺死にかかわる話をしてるのかな?ってところまでは一歩で行けるんだけど、そうだとは確定できないのがテクくていいところですよね。これが確定できると、「好きすぎて沈んで死んじゃう」ってニュアンスは、たとえばネットに普及している「沼」みたいな語で既に存在していて、おもしろくなくなっちゃうから。それとリズムの話なんですけど、短歌の一方向性と潜水の一方向性が一致しているのが気持ちよいと思います。潜水という行為には途切れなく沈み続けるようなイメージがあって、一字空けがなくてひと息に読めるこの文体が合ってる。

丸田 それともう一つ、最後の「だね」についてなんですけど。上からこの歌を読み進めていって、最初は「この人がそう思ってる歌なんだな」って受け取ってたら、「すてきだね」って急に言われて、あっ誰かに言ってるのかな、って思いなおしました。それが、ぬいぐるみと話すようなテンションなのか、具体的な誰かに対してなのか、全世界に向けて言っている感じなのかが分からなくて。最近、結構こういう口調の歌を見かけることが多くて、ちょっと……。

 苦手意識があります?

丸田 この歌に関しては内容とぴったりなのでよいと思うんですが、口調だけが変に二人称的な歌を見ると、ちょっと困惑するというか。やや苦手かもしれません。

 モノローグとダイアローグの中間があって、たとえばツイートってそういう発話だと思うんですけど、そういう捉えかたじゃないでしょうか。僕は我妻俊樹さんのツイートを読むのが好きなんですが、以前「日本語のエアリプ性」についての話をしてたことがあって。日本語はハイコンテクストな言語だから、すべての発話がエアリプのように意味や対象を特定しないで行われうる、短歌は日本語が持つその性質に大きく依存している、という主旨だったと解釈していますが、僕はそれにけっこう納得していて。短歌が行われている磁場ってそうだよねって思っています。初谷さんはこの歌以外でも、「ね」とか「よ」とかそういう語尾の選択をされると思うんですけど、その理由について思い当たることはありますか?

初谷 使いすぎて、本当はあんまり使いたくないんですけど……。それこそエアリプ的というか、届いてもいいし届かなくてもいい。神さまが人類に対して語りかけるとき、人類には受信できる人もできない人もいると思うんですけど、そういうイメージに近いかも。たとえば相聞っぽい歌できみっぽい人が出てくるとしても、きみという特定の他者に話しかけているというよりは、「人類よ」みたいな。そういう距離感のほうが、個人的になりすぎずに済むっていうのかな。Twitterが好きすぎるから、そう思い込んでるのかも(笑)。

 いえ、僕はTwitter苦手ですけどよくわかります。特に短歌って、そういう距離感と相性がよいですよね。完全なモノローグは自己の外には表出しえないので短歌にはなり得ず、かつ特定のあなたに向けて歌うわけでもない。だからその合間をとる、っていう話法なんだと思うんですよね。

初谷 うーん、私の短歌って「ちょっとわかんないけど勢いでどうにかしてる」のが多いから、そのまま「ゴーゴー!」って私だけの話をしてカーン!(終了のゴング)ってなると、読者はえっ?てなって終わるけど、そこで「ね」とか「よ」とか言うと、ハッ、私に言ってたんだ!?って、そういう感じになったりしないかなーとか……。独りよがりにならない保険じゃないけど、神の予言にする、的な意識だと思います。

 その神さまが……。そうですね、「神とは何か?」っていう話なんですけど……。

初谷 この場で議論するには重すぎる(笑)。

 違う違う(笑)。そこでいう「神さま」みたいな言葉で表現してるのって、「短歌」ってことじゃないかなって思って。初谷むいという個人ではなく、短歌に言わせることで、そういう声を出せる。

初谷 はいはい、そうですそうです。

 声の質が変わって、神性を帯びるというよりはむしろ、人間性がすこし薄れるっていうほうが正確かもしれません。

初谷 人間人間してる短歌ってあんまり乗れなくて……それはもちろん、作りによるんですけど。やっぱり予言的なほうがおもしろいだろ、っていうのはあります。あんまり、私の生活というよりは、どこかにあってあるいは自分かもしれないという距離感にできることが、短歌という変声機のおもしろさかもしれない。

 丸田さんはどう思います?

丸田 いま、めちゃくちゃ大事な話だと思って、頭の中で咀嚼してました。あの、初谷さんがTwitterで「見た」っておっしゃってたのでここで言うんですけど、僕には森博嗣の「スカイ・クロラ」シリーズと『serial experiments lain』が、中学生の頃から血として流れていて。『lain』だと、主人公が突然神さまになってしまって、自分が喋るとそれが世界になっちゃってる……みたいな。「スカイ・クロラ」だと、微ネタバレになるんですが、記述の上だと一人が喋っているのに、その声は三人くらいいるっていう、一体誰がどんな姿でどの声で喋っているのか分からなくなるシーンがあって。ちょっと、いまの短歌という変声機の話に近いかもなと思いました。

 その作品は、初谷さんは見たんですよね?

初谷 『lain』が、こないだGYAO!で無料配信をやってて、見ました。それ以前にも私、キモい趣味なんですけど、鬱ゲーのあらすじをよく調べてて。

 あぁ、「鬱シナリオまとめ」みたいなのありますよね。

初谷 そうそうそう。昔の作品が多いし怖いから自分ではプレイできなくて。ゲーム版の『lain』って、シナリオとかゲーム性がちょっと変わってて有名なんですけど、けっこう、ゲーム版とアニメ版で違うんですね。アニメ版は映像がとにかくきれいで。主人公の女の子が本当に、突然神さまになっちゃって、世界になっちゃうんですよね。

 「世界になる」っていうのは、見てみないとわからないですが、もしかしたら短歌の感覚と近いかもしれませんね。初谷さんは、自分の発話と短歌の発話って区別します? というか、しようとしますか?

初谷 ペンネームの自分とリアルワールドの自分は明確に分かれている感じがするんだけど……。『lain』には神さまである自分に成りすます偽の自分が出てくるんですが、周りの人はそれを自分だと思い込んでて、それはけっこう短歌っぽいかも。周りから見たら「こういう人だからこういう短歌を作ってる」って思われますよね。詩の要請で意地悪なことを言うとき、人間としての私がそう思ってるわけじゃないはずなんだけど。

 その場合、ツイートってどっちになるんですか? 初谷むいという名前でやってるわけですけど。どのくらいまで自己の発話だと認知しますか。

初谷 それも難しくて、私はTwitterで「爆裂恋愛ポエム!」みたいな感じでやってて……思ってないことを言ってるわけじゃないから、それがまったく自分じゃないのかっていうとそんなことはなくて。かといって、Twitterの文脈に沿ったツイートをしていることもあるし。短歌よりも混ざり合ってる分、気持ち悪い感じはあるかもしれないですね。

 初谷さんのツイートに関しては、どのくらい短歌でどのくらい短歌じゃないんだろうとか、どのくらい生活者本人でどのくらい生活者本人じゃないんだろうって思ってました。それでは二首目に関して、他に触れておきたいところはありますか?

初谷 作者としての手つきや意味の話をしておくと、この歌は頭の中のリズムでストーンとできて。上の句は、五七五七七というのが要請としてあるはずなのにそれがわからないというのが息が詰まっていく感じと近いかなって思って、決まったぜ!ってニコニコしてました(笑)。ここまでは冷静じゃないのに、下の句で定型になって、急に冷静な感じが出たらおもしろいな、と。「酸素を忘れる」のところは窒息とも取れるし、背中の酸素ボンベを地上に忘れてくるとも取れるかなって思っています。意図的に自分のねじを外している行為を、この人は冷静に言ってるのがいいんじゃないかって。

 「すてきだね」は共感を求める発話だと読まれうると思うんですけど、その場合、共感をするのはすこし厳しいですよね。作者としては、ここにどのくらい共感の要素を欲してますか?

初谷 いや、共感……。うーん。短歌スピーカーを通すと、すべてのことは呼びかけに、そもそもなると思うんですけど。「酸素を忘れるのもすてきだね」と、この人は自分の中で思っている。潜っちゃってるから声は出ませんけど、「すてきだね」って思ってる……。誰かに確認をとって同意を得たい、でも別に同意は得られなくてもいい。みたいな、わかりますかねこれ。

 たぶんわかります。僕もわりと初谷さんと似たような考えかたで「ね」とか「よ」とか使うんですが、共感を求めているという読みかたをされることがけっこうあって、そこは意図とは結構ずれるなーと感じることが多いです。

初谷 強すぎるんですかね、「だね」とか言われると。受け取らなきゃ、共感してあげなきゃって思わせる語ではある。だからそれを起こさないために、ある程度理解できないことを言う。「共感できるでしょ?」→「共感できます!」というのは日常のコミュニケーションであって、短歌でそれをやるとその二者で完!になってしまうから、「すてきだね」→「あぁ、うん……うん?」ってなる感じ。

 なるほど。そういう、壊す技術って難しいですよね。

初谷 はい。完全に意味がわかんないことを言うと引かれちゃうし。

 壊したと思っていても、そのルートでちゃんと意味を取られるんだ!ってこともよくあって。

初谷 そうそうそうそう。

 ここのルートも封じたし、そこのルートも封じたし、もうこの語とこの語は意味においては接続させないぞって思ってても、歌会で出してみるとしっかり意味で接続できました~、ということがよくあります。

初谷 歌会だと、みんな手練れすぎるっていうのはあるかもしれないですけどね。回路が脳の中にめちゃくちゃあるから。

 確かに、それは大いにありそうですね。そのほか、この歌についていかがでしょうか?

丸田 最初に初谷節って言ったんですけど、個人的には「水」のイメージをすごく初谷さんの歌には感じていて。回遊魚が死んだまま回るやつとか、イルカとか人魚とか、夜の海とか。

 はいはい、わかります。あの、ちょっと裏話なんですが、この歌会をやるにあたって、好きな歌人は何人かいるけどどういう組み合わせがいいのかなーって考えてて。思いついたのが、ポケモンのタイプを援用して考えてみるという。この人は何タイプだから、同じタイプの誰々と一緒がいいんじゃないか、みたいな。それで、丸田さんは「みず/くさ」っぽくて、初谷さんは「みず/フェアリー」だなと思って、よし、今回は水パで行こう!みたいな(笑)。

初谷 水パ回か、いいですね(笑)。じゃあこれから、この歌会を見たら「何タイプで組んだんだろう?」って思えばいいんですね。楽しみだ。

 勝手に謎の分類をして忍びないですが。では二首目をここらへんで閉めて、三首目に移ります。

季節考 後ろからコーヒーが来て前から紅茶が来た 窓に風

 〈季節考 後ろからコーヒーが来て前から紅茶が来た 窓に風〉。「後ろからコーヒーが来て前から紅茶が来た」という状況があるよ、ということから読みを始めたいと思います。喫茶店に置き換えることも可能だけど、構文的には(道を歩いていると)後ろから××が来て、前から○○が来た、っぽいですね。それで、「季節考」……この「考」は「ドラえもん考」みたいな、何々の考察をしましたよという「考」の使いかたで、季節のことを考えたから「季節考」。「窓に風」は、閉まった窓に風がぶつかってガタガタ揺れているみたいな。この三つのパーツがあってそれをどう関連付けるか、で、意味の経路ではここで行き詰りました。なのであとは意味以外の経路で、無意識のところで繋げられるかなっていうと、なんか寒い感じがしますね。秋とか? 11月に読んだからそう思ったのかもしれないけど、「最近冷えるね~」を言い換えている感じがする。季節のことをつい考えてしまう気温があり、コーヒーとか紅茶とかあたたかい飲み物があり、木枯らしが吹いているという周辺情報ばかりたくさん提示されて。なんかウィリアム・テルがリンゴの周りをめった打ちにして、リンゴの形を浮かび上がらせているみたいです。初谷さん、いかがでしょうか?

初谷 温さんとはちょっと読みが違くて、自分という「点」の話をしているんだと思いました。わたしは場所を、喫茶店で読んでいて……。これ、見えますか?

初谷さんが詠草に書いていた図(イメージ)

初谷 自分はテーブルの前に座っている。自分にとって前のほうから紅茶を運ぶ人が、後ろのほうからコーヒーを運ぶ人が見えた。で、自分の横には開いた窓があって、風が自分のほうにゾーン!って通って。ここ自分、みたいな。

 「前」や「後ろ」に加えて、風を感じているという情報も含め、中心点は自分でしかありえないという感じですかね。

初谷 「季節考」も最初は読み飛ばしちゃうんだけど、最後まで読んでから戻ると「季節考」をしているのは自分だ!って戻ってきて。そういう、自分を中心とした数学的な図面に落とせるのがうまい!と思いました。これなんか、秋っぽいの謎ですよね。いまが秋だからなのかな。

 コーヒーとか紅茶とか風とか、その辺から寒さが連想されて秋になる……というのが説①です。説②は、「小さい秋見つけた」しかり「目にはさやかに見えねども」しかり、「秋」って見つけてあげないと存在しないのでは?という疑惑があって。

初谷 あー、なるほど。

 だからたくさん周辺情報が出てきて、積極的に浮かび上がらせようとしているとういことはこれは秋なのか……という思考が働いているというのが、説②です。丸田さん、自分の歌ですが、いかがでしょうか。

丸田 歌会自体すごく久しぶりなので、自分のが読まれるってすごい幸せだなと思いました(笑)。何から言うのが良いでしょうか……。この歌は一字空けが二つあって、これは僕がハマって使ってるんですけど、これ、一緒にユニットでやっている「第三滑走路」の青松さんや森さんにはたまに、二つあると読みの負担が大きいと思う、って指摘されます。

 負担が大きいから、やめたほうがいいってニュアンスですか?

丸田 はい。そのまま行ってもいいけど、読者減るかもよ、振り落としちゃうかもよみたいな。

 読者が減る(笑)。

丸田 それで、これはめちゃくちゃ作者話であんまり言うもんじゃないかもしれないですが、この歌は推敲前は〈季節考 後ろからコーヒーが来て前から紅茶が来た 夏のこと。〉でした。でも一つの季節にしたくないなと思って。風は年中吹いているから、窓の向こうが春夏秋冬どれなのかわからない。だから読者には自由に、そこに季節を代入したり想像してもらって、「季節考」をしてくれたら、みたいな。主体が季節考をしている歌ではありますが。それと、このときの主体からすると、後ろや前から何か来るっていうのが季節とそのままダブって見えていて。季節って明確に分かれるわけじゃなくてグラデーションの中にあるものなので、たとえばこれが夏の日なら、前や後ろに暑い夏とか秋の気配とかのグラデーションが迫っているみたいな、へんてこな空想の歌でした。

 風は確かに年中吹いてるけど、でもやっぱり春か秋のイメージが強くないですか?

丸田 僕が年中風を感じているせいかもしれないです。

初谷 すてきすぎる。

丸田 風が好きすぎて、西川貴教みたいに(笑)。四季では分けられないものが好きだったりします。海とかも四季じゃ分けられないので。

初谷 意外と、アンチ季節ではあるんですね。

丸田 アンチ季節ですね。僕はずーっと、アンチ季節です。

 俳句やってるのに?

初谷 とがってる。

 季節を美しいものとして歌うことにアンチを覚える?

丸田 半分、そうですね。ほんとは四季がめちゃくちゃ好きで、言い表すのが難しいんですけど、「日本古来の」とか言われた瞬間に、いらんものがくっついたなーって思うんです。「季語を入れて読むのが俳句だ」と言われると、そうじゃないし。「俳句の中に季語がある」ならわかるんですけど。「季節を前提として詩を作れ」って、今、言う団体に対して、それはほんとに季節のことを思っての創作か?って言いたくて……なんというか嫌がらせです。

 なるほど。アンチ季節ではなくて、季節の厄介オタクですね。

初谷 うんうんうんうん、そうですね(笑)。

丸田 季節ラブ過ぎて、季節を推してる他の人が許せないのかも。

初谷 四つだけに分類できるわけはないのだが? 浅い思慮で季節を語らないでほしいのだが? みたいな。季節のオタクくん。なるほど。

 季節のオタクくんであることを踏まえると、最初の「季節考」は、はちゃめちゃなマウンティングに見えますね。

初谷 季節マウント(笑)。

丸田 みんなにも考えてほしいな、っていうアドバイスというか……アドバイスっていうとマウンティングなのかもしれないですけど(笑)。

初谷 私も温さんも、感覚は間違ってなかったけど、そこまで季節に対して重い感情があると思ってなくて。一字空けが二つあることが読者を選ぶかもしれないって話だったんですけど、丸田さんの一字空けはすごくうまいし、それが空間的なふくらみを生んでると思っていて、だから一字空けの数は、使いこなせるかどうかの問題っていうか、必ずしも悪いとは思わないんですけど。ただ、季節に対してすごく感情を持ってるってことを踏まえてみると、「季節考」と「窓に風」が並列に見えるっていうことがあって。上からも下からも重力がかかって、パワーバランスが変わると思うんですけど、「季節考」のほうが重要ならそこは変えてもよかったかも、みたいなところはちょっと思いました。

丸田 そうですね、ここでは僕の意識を喋りすぎちゃったので、本当はもっとあっさり読んでほしい(笑)。なんか、すごい季節のことを考えている人が、「季節考」とか最初に言っちゃってる、重い歌みたいになっちゃいましたが。

初谷 じゃあ合ってるか(笑)。

 今日の三人はわりと、似たタイプの字空けをしがちなメンバーだと思っています。たとえば宇都宮敦さんの『ピクニック』には、〈真夜中のバドミントンが 月が暗いせいではないね つづかないのは〉(「ハロー・グッバイ・ハロー・ハロー」、『ピクニック』)など印象的な一字空けを含む歌がたくさん出てきますが、そことも少し違うような。こっちはパーツごとに接続端子があるんですが、この三首目を見ていくと特に端子はなくて、つまりパーツに分けることが目的というか、分けてぶつけることで言葉と言葉の相互作用を起こすことがこのタイプの字空けの目的なのかなっていう。

初谷 読み味の余韻に作用させるためとか、時間や思考の距離を表すようなイメージがあるけど、いまの言葉同士を絡ませるじゃないけど、作用させるための空間としての字空けっていうのはすごいわかりますね。それはすごい思いながらやってる。

 なんか、MIDIの音符づくりしてる感じがありますよね。短歌が読まれるたびに再生されているとして、こことここが響き合うために、離れている必要がある。離してることによって、共鳴が可能になる。

初谷 うんうんうん。それぞれの音のバーが少しづつ伸びていく感じ。何なら一句目と三句目をハモらせることも可能。

 そうそう。で、たぶんさっき初谷さんが言っていたのは、「季節考」と「窓に風」が字空けの構造によって不必要に響き合ってしまうってことなんじゃないかと。字空けってみなさんどんなときに使います?

初谷 最近、ふつうの文章を字空けするみたいなのハマってて。「わたしはあなたが好きだった」という文章があったとして、「わたし は あなたが」みたいにしたりとか、文章を割っていくみたいな。言いたいことをそのまま言うと強すぎたり弱すぎたりするから、力を調整するために、他と混ぜ合わせるっていう。ハーモニーを発生させるために。私が今日出した歌は、むしろハーモニーを発生させないために字空けをなくしてると思います。

 今日の歌は、字空けしたら「潜水」と「酸素」あたりがハモってしまいそうですが、字空けがないことによってむしろ本来かぶらないパートがかぶってて、不協和音っぽくなってる印象がありますね。そういえば今日出てきた歌は、二首目が字空けなし、一首目が一字空け×1、三首目が一字空け×2と作りが別々でした。一言に字空けと言ってもいろいろありますね。丸田さんは、けっこうパーツに分けること多いですか?

丸田 それなんですけど、さっき図を書いてまして。見えますか?

丸田さんが詠草に書いていた図

 あっ、それですね! それそれ!

丸田 右上が「ハモり」のある字空けで、左上はハモっていないけどパートが分かれていて。それと、こんなのもある気がしてて。左下の、空くんですけど、またもとの位置に戻ってくるみたいな。右下はほんとに消失して、無音になってる。オーケストラでも重要なフレーズの前が一瞬、無音になったりして。字空けもいろいろな形に分析可能だなと思います。

 そうですよね。たくさんあるなー。たとえば右下の消失に関していうと、初谷さんの〈カーテンがふくらむ二次性徴みたい あ 願えば春は永遠なのか〉(「春の愛してるスペシャル」、『花は泡、そこにいたって会いたいよ』)は字空け史に燦然と輝く一首だと思います。消失って言っても、イメージは自然に伸びちゃうから、この歌みたいに工夫して消失させないと消失してくれないのがむずかしいところですよね。宇都宮敦さんは左下っぽいかな。

初谷 また同じテンションに戻ってくるみたいな。

丸田 永井祐さんの〈月を見つけて月いいよねと君が言う  ぼくはこっちだからじゃあまたね〉(「ぼくの人生はおもしろい」、『日本の中でたのしく暮らす』)の二字空けとかも、あれはあれで別ジャンルだし、さっきの図のほかにももっとたくさん種類はあると思います。

 字空けだけで延々と話せますね……というところなんですが時間もあるので、このあたりで三首目も終わりにしたいと思います。本日はいろいろなお話が聞けて嬉しかったです。ありがとうございました!

初谷 ありがとうございました!

丸田 ありがとうございました!

(2021年11月7日、Zoomにて)

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