【杉原一司一首評/笠木拓】お前の掌《て》に掌《て》を重ねあふみぢめさは知りゐてなほも星くらき夜を

杉原一司歌集刊行記念

(執筆者:笠木拓)

  お前のを重ねあふみぢめさは知りゐてなほも星くらき夜を 杉原一司

 わたしなら「星あかき夜を」にするだろう。天上でまぶしくすずしげに、清潔に光る星々と、求め合うからには互いに手をくださずにいられない人間存在の「みぢめさ」とのコントラストが決まる。わかりあえないのに掌を重ねるというみじめな営為にいったん絶望したのち、あらためて引き受けたうえで、光に向かいたいのだ。

 けれども、諦念を反転させて希望となすセンチメンタルな手癖を、杉原は用心深く避ける。お前はこの「みぢめさ」を徹底的に突き詰めることから逃れようとしてはいまいか――歌の中の「お前」に呼びかける声が、わたしへの問いかけに聞こえてくる。初句字余りのくぐもった声の重たさ。

  天金のちりをつぶさにぬぐひゐてふとみだらなる回想湧きぬ

  ひややけくあまりに高くひかるゆゑ星見ゆる窓にそむきて眠る

 天金の本のちりをぬぐう情景だけで、「回想」をなまなましく喚起させる力は十分だ。だが、その行為を「つぶさに」とだめ押しすることで、回想のみだらさはむしろ背景化し、執拗にちりをぬぐう指先こそが原罪の重さと甘やかさを纏う。二首目、理屈なら「あまりに高く」隔たっているのであれば、わざわざ己の卑小さを嘆いて「そむ」くまでもないはずだ。これを自罰と呼ぶには、手をくだす罪への羞恥に殉じすぎている。冷たく、潔癖に。

 天に星があってもなお暗い、掲出歌の地上は、なんと重力が抗いがたく強いのだろう。この重さは飛翔のためのポテンシャルではないし、あの星々が希望を照らす舞台照明などでもない。自己にも「お前」にも陶酔しない殉難が、心を打つ。

◇笠木 拓(かさぎ たく)
六月生まれ。歌集『はるかカーテンコールまで』(港の人)。「遠泳」同人。

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