【きょうは傘とか歌ありがとう 6】俵万智『未来のサイズ』 ― 笠木拓

 朝ごとの検温をして二週間前の自分を確かめている  俵万智『未来のサイズ』

 3章構成の歌集の、巻頭に置かれた歌。Ⅰ章は「2020年」の副題が付されており、掲出歌も新型コロナウィルスの流行により変化を余儀なくされた生活の一部を切り取っている。すっと読めるのだが、よくよく考えると、確かめる対象は正確には「二週間前の自分」ではなく、「この二週間の自分」ではないかとも思う。仮に発熱を認め、検査の結果が陽性だったとしても、この2週間のうちいつの時点で感染したかはわからないので。とはいえ、理屈はまあそうなのだけれど、便宜上「二週間前」というある一点にピントが絞られているだけであり、おかげで言いたいことが短歌定型においてくっきりとイメージを伴って立ち上がる効果もまた明白である。

 十五分前に見たあのガジュマルの続きの枝に出会う密林
 ダンボール六十箱に収まった島の暮しに貼るガムテープ

 こうした数詞を扱う歌に顕著だが、俵万智は情報とイメージの四捨五入が抜群に上手い。1首目はガジュマルの樹を見たことのない人にも、そのスケールの大きさにふれた驚きを伝えてくれる。2首目もきりよく「六十箱」だから「収まった」感が出て、暮しへの愛惜がいや増す。(六十進法から時間や暦にもほんのり連想が及ぶせいもあるだろうか。)ダンボールというアイテムに収斂させ、それを閉じて終わらせる行為をガムテープに焦点化する。
 第一歌集『サラダ記念日』のあとがきの一文、「原作・脚色・主演・演出=俵万智、の一人芝居――それがこの歌集かと思う」があまりに印象的なのだけれど、『未来のサイズ』を読んでいると、歌人・俵万智の辣腕はむしろ映像編集にこそ発揮されているのではないかと思う。あるいは、映像や動画の比喩を続けるなら、思わず目を引くサムネイルづくりが上手い。

 トランプの絵札のように集まって我ら画面に密を楽しむ
 「黒長い貝が黄色いコメたちを旨くするやつ」というリクエスト
 シルエット海辺に浮かび原発は出航しない豪華客船
 右は雨、左は晴れの水平線 
片降かたぶいという語が島にある

 対面を避け、オンラインのビデオ会議や座談会が当たり前になってもう2年経つが、四角く区切られたエリアに参加者の顔が並ぶスクリーンショットを雑誌の誌面に見つけたりなどすると、やっぱり奇妙さを覚える。静止画でありながら、そこにある顔たちが今にも動いて喋りだしそうな熱を帯びた感じ。その感覚は会議に自分が参加しているときにもちょっとあって、現実に机を囲むのと違い、声や姿の遠近感がぜんぶのっぺりと同じ平面上にある、あの感じ。1首目は「楽しむ」と歌いおさめられているものの、「トランプの絵札」の、表情は読めないのに生きていそうななまなましい不気味さとかのほうもまた喚起してくる。
 2首目の発話は息子との日常会話だが、よくよく見ると「黒長い貝」に音声を切り貼りした跡が見える。たぶん実際の発話そのままなら「黒くて長い貝」とかが自然だろう。この「黒長い」は脚本にこうあるのではなく、冗長な部分を切り落として繋げたものに思える。間に挟まっている「あー」とか、間とか、言いよどみとかも含めて。(対して、たとえば『サラダ記念日』の「嫁さんになれよ」なんかはもともとそういう科白として書かれたものを発話したっぽく聞こえる。)
 3、4首目はサムネイルにこのままできそうと思って引いた。原発を遠くから写したシルエットに、「出航しない豪華客船」が大きな文字でかぶさる。4首目は音的にも映像的にも対句で、晴れと雨の境界が長方形のサムネの中央にあって、「片降」の二文字が配されるきれいなシンメトリー。アイキャッチ性能の高さと、再生ボタンを押せば広がる時間や空間や物語を想像させる力との両立は、短歌ではけっこう難しい。本書を読み、定型で破綻なくこれができているのは修辞と技巧の賜物だとあらためて感じた。
 ただ、3首目のように時事・社会的な内容を扱うとき、ともすれば図式的で切り込みが浅くも映り、好悪の分かれるところではあると思う。

 何一つ答えず答えたふりをする答弁という名の詭弁見つ
 スクラムにダイブをすればヒゲパンチこれが大人の学級会か

 これらの歌を含む「寅さんだったら」一連などは、批評性としては弱い気がして、わたしは乗れなかった。というより、読者として、「よく言ってくれました」と膝を打って溜飲を下げて終わりにしてはだめだなと思い直した。

 抱きしめて確かめている子のかたち心は皮膚にあるという説
 制服は未来のサイズ入学のどの子もどの子も未来着ている

 さて、歌集の表題歌である2首目は、これだけで読むと、いままさに進学して新しい日々を始める若者の期待と不安をすくい上げた良質な讃歌だ。入学式の日、まだぶかぶかの制服は、すこし未来のじぶんの背丈に合わせたものだから、成長してぴったりになる輝かしい未来をよく象徴している。
 このすぐ前に置かれている1首目をあわせて読むと、印象が変わってくる。もし心が皮膚にあるなら、抱きしめてじかに触れて確かめたいし通い合わせたい。けれど、もちろん母親は服を着ているし、おそらくこの場面では息子はぶかぶかの制服を着ている。制服をへだてているから直接には心に触れられない。けれど、抱きしめることで母親は自身の身体で息子という存在をかたどり、確かめ直している。
 おそらく本音では、母はわが子に「未来のサイズ」を着せたくない。

 たんぽぽの綿毛を吹いて見せてやるいつかおまえも飛んでゆくから  『プーさんの鼻』

 初めて我が子が登場する第4歌集『プーさんの鼻』から。俵の代表歌の一つだろう。大学の短歌会にいたあるとき、この歌について話していたら、「ちょっと乗れない」みたいなことを言ったメンバーが複数いた。当時のわたしはなんでだよ素直にいい歌じゃん、と思っていたのだけれど、だんだんとその感覚もわかってきた。いつか飛んでゆくということは、今は〈われ〉=母の領内にいるということでもある。たとえばこの連載の第4回で取り上げた『太陽の横』とは対照的だろう。すこやかでほほえましく描かれた、子に向ける視線の裏に張り付く、ドメスティックな所有欲。第5歌集『オレがマリオ』の表題歌の鑑賞(「日々のクオリア」2018年1月22日更新分)で平岡直子は俵が「母子という関係の閉塞感やグロテスクさ」を書いていると鮮やかに指摘している(この鑑賞をわたしは15回くらい読みました)。

 地図に見る沖縄県は右隅に落ち葉のように囲われており

 『未来のサイズ』に戻って、息子と二人で暮らす歌集の主人公は、Ⅱ章の「2013年〜2016年」では沖縄の本島ではない〈島〉に居を構えている。息子が中学へ進学し寮に入るのを期に母子が島から宮崎県に転居し、別々に暮らし初めて以降の歌がⅢ章の「2016年〜2019年」に収められている。この歌はおそらくそんなつもりで詠まれたわけではないのだろうが、島を離れて身も蓋もない言い方をすれば「子離れ」の季節に移行したⅢのあとにもう一度戻って読み返すと、囲まれた領域である〈島〉が、子とふたりで過ごした幸福な時間を象徴するかのようだ。

 子の髪に焚火の匂い新調のダウンジャケット焦がして戻る
 10センチ背丈伸びたる息子いてTシャツみんな新品の夏
 着た気配なく戻り来ぬ北斎の柄のTシャツ持たせてやれど
 熱いうち羽をむしればなんとなく見たことのある鶏肉となる
 活発な活魚の国の部活のち就活、婚活、終活、刺身

 服と肌の歌を見ていきたい。Ⅱ章では島の豊かな自然の中で思いきり遊ぶ子の姿が繰り返し描かれ、その冒険はおおむね母の視野のうちにあったのだが、ここでは母は現場に居合わせず、匂いという痕跡で後から知る。背丈は急速に伸びてTシャツは未来どころかどんどん今のサイズに合わなくなっていく。3首目は4週間サンディエゴに滞在し帰国した息子を迎えた折の歌。「北斎の柄」を子に持たせたのはそれが通りの良い母国のサムネイルと母が考えたからなのだろうけど、いかにもありがちな発想が気恥ずかしかったからか、たんに見向きもしなかったのか、手を付けなかったようだ。このずれが可笑しくてせつない。
 この文脈で3、4首目を引くのはいじわるな気もするけれど、でも立ち止まってしまう。3首目は子どもたちと鶏の食肉処理場を見学した際の一連、4首目は作者が選考委員を務める新語・流行語大賞が題材の一連から。「鶏肉」も「刺身」も肌を覆っていたものが力で剥ぎ取られ、むき身にされる。むしられるのが「羽」=飛び立つ可能性であることや、ライフステージの行き着く先の結句に(「活魚」の縁語とはいえ)いきなり「刺身」が出てくる展開など、「未来のサイズ」から陰影を反転させたネガにも見えてぎょっとする。

 最後まで友を息子は庇いたり我は憎めり今も今でも

 でも、ぎょっとする歌といえば、この歌が本歌集でいちばん好きかもしれない。本人は許しているにもかかわらず、我が事として憎み、怒り、あまつさえ根に持つ。ここにはうっかり映ってしまった語り手の苦い表情があり、例外的に編集で切り落とされずに残っているからだ。前後の歌も含めて、息子の友人が何に息子を巻き込みあるいは何を唆したのか、詳細は書かれていない。書かれていないせいで余計に表情の凄みそのものが見える。

 親という役割だけを生きる日の葉桜やさし授業参観
 別れ来し男たちとの人生の「もし」どれもよし我が「ラ・ラ・ランド」

 かつて俵は第3歌集『チョコレート革命』で〈妻という安易ねたまし春の日のたとえば墓参に連れ添うことの〉と詠ったが、ここでは「親という役割」に踏みとどまって愛する対象を侵犯しないことのほうに安らかさを覚えているようだ。
 映画「ラ・ラ・ランド」の最終盤、愛しあった相手とともに生きる道を選ばず、別れて互いの夢を追ったかつての恋人同士の視線が数年ぶりに交わり、瞬間、思い出と選ばなかったほうの甘い未来が走馬灯のように駆け巡る。2首目は歌集の巻末に置かれた歌。「未来のサイズ」を着ることも、成長がそれを追い越すこともなく、息子の肌をずっと抱きしめていたほうの未来も、この「もし」のうちにあるいは含まれているのかもしれない。
 「やさし」「よし」の言い切りは、島での暮しをダンボールに仕舞い封するときの、ガムテープを切るさみしくも小気味よい音に似ている。

 手伝ってくれる息子がいることの幸せ包む餃子の時間

 ふたたびⅠから。2020年春の一斉休校が背景にあるようだ。やわらかな肌をもつ、どこか島のようなかたちの餃子。ふいに訪れ、ずっとは続かないふたりの時間に、母と子は並んで封をしてゆく。

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