(執筆者:青松輝)
かつて我身をゆさぶりし激情のかへりくる日は虹かかりをれ 杉原一司
僕は22歳で、頼まれてこの評を書く。
杉原一司のことはよく知らなかった。塚本邦雄の親友、前衛短歌の先導者、夭折。それだけだ。
塚本の文庫版全歌集の『水葬物語』の解説に「水葬されるのは、亡き親友だけではない。彼と共に戦ってきた「悪しき近代」でもあるのだ。」とある。杉原と塚本は前衛という方法で、「悪しき近代を水葬した」……。
塚本と杉原の歌集は読んだ。今ここが息苦しいとして、それは僕もだ(日本脱出)。だとして、「水葬」?そんなことが可能か?
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カードゲーム「遊戯王」に『激流葬』という有名なカードがある。敵がモンスターを出した時に使う。
激流葬の効果は「モンスターが召喚された時に発動できる。フィールドのモンスターをすべて破壊する。」だ。召喚された敵を破壊するとき、味方もすべて破壊される。
これは「水葬」の特質と似ている。水が何かを流すとき、同時に自分も流される。水は僕たちを区別しない。なにかを水葬した、と思ったその瞬間に、自分たちが水葬されている。
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塚本に「若き死者への手紙」という小文がある。ラブレターと見分けのつかないこの文は華麗なタッチで杉原一司の死をピン留めする。美しいが、僕は嫌いだ。
塚本は「僕は君以外の誰も懼れない」、「僕は決して「孤り」ではない」と書く。美しい友情。「近代の乗り越え」という終わった夢。没後70年、歌集と評。一度きりの死が普遍性を帯び、固着していく。
「君はいつも何かについて怒っていたのだ。死によって君の怒りは中絶した。」と塚本は杉原に書く。でも杉原は、そう書く塚本にも、そう書かれる自分自身にも、たぶん怒っただろう。杉原の「怒り」は、「水葬」に抗するものとしてあったはずだ。
杉原が死んだことは本質的な問題ではない。いま生きている歌人も、僕たちの手で、生きたまま祭り上げられている。
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杉原は小論「感傷排除の態度」で「アンチ・センチメンタリズム」を語ったが、「感傷排除」ほどセンチメンタルなことはない。近代を越えようとする試みは(水葬、method(メトード)、モダニズム、ポストモダン、何でも)、常にすでに「近代」に飲み込まれている。激流葬の中に。
かつて我身をゆさぶりし激情のかへりくる日は虹かかりをれ
この歌が巻頭に置かれたこと自体、「排除」を願うほど浮き上がる「感傷」の皮肉な特質を示している。そしてこの歌こそを僕は「悪しき近代」と呼ぶだろう。
杉原と塚本が「近代を水葬した」とは思えない。杉原の「怒り/激情」が、「歴史/近代」の激流に、いま回収されようとしている。この歌が「激情のかへりくる日」を信じるのはなぜか?「虹かかりをれ」と願うのはなぜだろう?
僕は22歳で、頼まれてこの評を書いた。杉原は23歳で亡くなる。
僕たちが必ず失うのは命だけではない。生きていても、命より大切な次元で、いつでもなにかを進行形で、僕たちは失っている。
秋逝くとかわきたる掌をすりあはせ失ひしものの数を思へり
◇青松 輝(あおまつ あきら)
1998年3月生。2018年から東京大学Q短歌会に所属。時間帯によってはYoutuberなこともある。