【ブックレビュー】『それぞれの街に降る雨についての数行』(朱位昌併、千種創一、𠮷田恭大、2020年)

(執筆者:温)

「それぞれの街に降る雨についての数行」は、活版作家・増本綾プロデュースの活版印刷による詩歌の作品集です。
詩人の朱位昌併、歌人の千種創一、吉田恭大の三人による作品に、それぞれアイスランド語、アラビア語、中国語の翻訳をつけました。
こちらの作品は一枚ずつ古い活版印刷機で印刷しております。色の変化、インクの滲みや掠れも風合いのひとつとしてお楽しみください。

「うたとポルスカ」オンラインストアより

 刷られている部数が少ないので(うたとポルスカでも早々に完売してしまった)、まずは『それぞれの街に降る雨についての数行』がどのような本なのかを留めておきたい。
 包装用ビニール袋を開けると、2ミリほどの厚紙で作られた縦19cm×横12cmの黒い表紙があらわれる。金銀のアラベスクめいた模様が、中心に一行書きされたタイトルからすこし間隔を空けて整列している。表紙と言ったけれど、中本が綴じられているわけではないので、本や手帳よろしく片面が開く箱と表現するほうが正しい。この本の静謐な印象は、位の高い小動物のための棺桶のようなこの表紙がまずは連れてくる。
 箱の内側には三つのまっ白い紙が差し挟まれている。もちろん三人の作者が寄稿した詩や短歌がそこには書かれているのである。ややインクが滲んだような書体で刷られた、詩の一部、そして短歌の全部には、日本語ではない言語の訳文がうっすらと、前世のように重ねられている。白い紙は黒い表紙に綴じられていないので、それぞれを物理的に繋げるものは特に存在しない。しかしおそらく、この本を手元に持っている人は三枚の白い紙を丁寧に黒い表紙に仕舞いこみ、場合によっては包装用ビニール袋でさらに包んで、丁寧に保管することになるだろう。わたしもそうしている。なぜならこの本が美しいからだ。

 この本を美しいとする認識にはトリックがある。
 そのことを考えるにあたっては、作品に裏打ちされた他言語の訳文が手掛かりになる。たとえば千種創一の短歌にはアラビア語の訳文が重ねられている。わたしはこのデザインを美しいと感じている。でも、もしこのアラビア文字だと認識している模様が、実は文字ではなくて、ただの曲がりくねった線だったら? 何かの間違いで、「ただの曲がりくねった線」がここに印字されてしまっていたのだとしたら? もうその線が美しい道理はない。線は、千種創一の短歌のアラビア語訳だったから、美しいものと映ったのだ。
 これはどういうことか。要するに、文字そのものの形が独立して美しいことはない、ということだと思う。文字のデザインは常に、その文字の意味するところとの関係のなかで評価される。絵画や景観は美しくだけあることができる。音も楽曲も美しくだけあることができる。意味がわからなくても、作者を透かして見なくても、伝えたいことがなくても、それでも単純に美しくあることができる。ド、ミ、ソのハーモニーが美しいように。しかし文字や語りにはそれができない。言語が持つ記号的な役割を無視してただ美しくだけあることはできない。したがって、ほとんど文字でしか構成されていない『それぞれの街に降る雨についての数行』は単純に美しいのではなく、その詩や短歌の意味内容との関係の中で、読者にとって美しく映っていると言うべきであろう。言うまでもなく、それはこの本の魅力をいささかも減ずるものではない。

 ここまでの、よく考えれば当たり前とも言える論証をしたのは、これを前提としてここから先の話をしたかったからである。
 『それぞれの街に降る雨についての数行』は単純に美しいのではなく、その詩や短歌の意味内容との関係の中で、読者にとって美しく映っている……。そうかもしれない。でも、それをひっくり返す可能性にこそ、この本の価値があるとわたしは思う。
 この本の装丁へのこだわりかたは、幾分とびぬけている。そもそも活版印刷で作られる本というものがこの時代に珍しいけれど、それに加えて国内でほとんど流通していない紙を使ったり、紙ごとに文字を異なる色で刷ってそのうちひとつでは一行のなかにグラデーションをかけたり、その創意と仕上がりは類を見ない。
 この結果、次のようなことが起こりうるのではないか。詩や短歌の文章としての意味を論理的に読み取らなくても、紙の質感を確かめながらその文字列を追っているだけで楽しい。すこし滲んだ書体によって、その詩の景色が見えてくる。まっ白な紙に印刷されていることが、読みに影響を及ぼす。程度はともかく、言語が持つ記号的な役割とは異なるチャネルから詩を味わう可能性を、この装丁ははぐくんでいないだろうか?
 詩は、生活必要上使われるツールとしての言葉とは違う。逆の言い方をすれば、言葉の持つツール以外の側面は、すべて詩という名前で呼ぶことが可能だと思う。もちろん意味内容によって醸される詩情はその主たるところだが、本当は詩って、もっと自由で幅広いんじゃないか、とわたしは考えている。意味以外にもほんとうは、詩情にアクセスできるチャネルがたくさんたくさん存在するのではないか。わたしたちは、意味を前提とするツールとしての言葉に慣れすぎて、それらの多くを見逃しているのではないか。それはたとえば韻であったり、律動であったり、音程であったり、文字上のリズムであったり、掛詞などの言葉遊びであったり、そして『それぞれの街に降る雨についての数行』が示した、言葉のデザインであったりする。
 もしそうなのだとしたら、わたしたちはそれらを取り戻さなければならないだろう。『それぞれの街に降る雨についての数行』のような作品を通じて。

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