うたポル歌会記―相田奈緒、工藤吹、温(2022年8月21日)

歌会記

参加者

相田奈緒(あいだなお)
@aidana_t 「短歌人会」所属。2016年より坂中真魚、睦月都とともに「神保町歌会」を運営。アイス好き。

工藤吹(くどうふき)
@z_s_lz 2001年生まれ。『NOPE』をIMAXで観ました。

温(あたむ) <司会・記>
@mizunomi777 「うたとポルスカ」運営、「イルカーン」メンバー。

詠草

三日月は釣りに適した椅子であることは映画館で教わった
(工藤吹)

枯れた花を飲酒のように 目のまわりに赤と青が滲んだまま
(温)

フリーズドライの雑炊はお湯にゆるんで窓に触っている外の枝
(相田奈緒)

歌会記

 お集まりいただきありがとうございます。今回の「うたとポルスカ」歌会は、相田奈緒さん、工藤吹さんと一緒にやっていきます。例によって僕が個人的に好きな歌人をお呼びしているのですが、お二人は、これまでお互いの作品って読まれたことありますか?

工藤 あります。文學界2022年5月号の「繰り返しているように」、すごく好きでした。〈庭の花を明るいうちに摘むことができれば夜に室内の花〉とか鮮明に覚えてて、すごく好きです。

相田 ありがとうございます。わたしも工藤さんの歌、Twitterで引用されて流れてきたりするのをちらちら見かけていて、気になっておりました。なので、今日ご一緒できてうれしいです。

 本日はよろしくお願いします。

工藤 よろしくお願いします。

相田 よろしくお願いします。

 それでは歌会に入りましょうか。一首目から始めていきます。

 

三日月は釣りに適した椅子であることは映画館で教わった

相田 〈三日月は釣りに適した椅子であることは映画館で教わった〉。これは、ドリームワークスの映画が始まる直前に流れるオープニングロゴだなって思いました。三日月に男の子が座っていて、釣りをしている。まず、「あれだ!」ってわかったことの嬉しさがありました。あの映像について深く考えたことなかったんですけど、あれは一体……なんなんだろう、どういう企業イメージを伝えてこようとしているのかいまいちわからない(笑)。でもなにか、映画までの移行期間みたいな、まだ始まっていないけどあの映像が流れ始めたらもう喋っちゃいけない、あの微妙な時間の感触を想起しておもしろく感じました。あの時間、観ている側の人もみんな椅子に座ってるなとかも思ったり。〈教わる〉という動詞の持ってきかたとか、〈椅子であることは〉の〈は〉も結構気になって……散文だったら〈椅子であることを〉になると思うんですけど、〈を〉ではいけない感じがして、〈は〉の力を強めに感じます。まだ解明しきれていないんですが、とりあえずそんなことを思いました。

 ありがとうございます。「移行期間」の話、なるほどと思いました。「映画泥棒」とか流れてる……あの時間がいちばんワクワクする説がありますよね。

相田 映画泥棒は、すごく好きな人とすごく嫌ってる人に分かれるんですよね。

 そうなんですか? あの時間が嫌なのか、それともキャラ自体が嫌われてるのかな(笑)。「教わった」のところ、僕もおもしろかったです。〈映画館で知った〉じゃなくて〈映画館で教わった〉なんですよね。ここに捻りがある。ちょっとコミュニティ的な感覚がありますかね?

相田 〈知った〉だとそのとき、その瞬間に知ったということですが、〈教わった〉だと「通っていってだんだんわかってくる」ニュアンスがありますね。

 たとえば、「クラブで教わった」「ストリートで教わった」みたいな……。具体的に誰かに教わったというよりも、何度も足を運ぶことで〈教わった〉、積み重ねと時間経過を感じさせる表現だなと感じます。

相田 あとは〈知った〉よりも、若さ……若さというと変なんですけど、〈教わった〉は青年期のイメージがあるかも。実際には年齢は関係ないんですけど、映画館と組み合わせるとそんな印象があります。そういうことを考えていくと、映画館に通う月日のなかで、あの短い映像、ドリームワークスのオープニングロゴを見た経験の蓄積が〈教わった〉に達している感じがして。

 たしかに。前提として、〈三日月は釣りに適した椅子である〉という表現が美しいですよね。その内訳として、まずはドリームワークス側が生み出した「三日月に座って釣りをする」という発想が美しいんですが、それを日本語に落とし込んだ際に生まれる〈三日月は釣りに適した椅子である〉という言い切りが、定型とも一致していて綺麗。よく考えると「椅子である」というのはこの歌が足してる部分ですね。元の映像では座っているだけで、椅子であるとは言っていないので。この比喩が、先ほど相田さんが言っていた「この映像を見るときは必ず椅子に座っている」ことを連れてきて、この表現の納得感を補助している感じがします。……ドリームワークスのオープニングロゴっていいですね。他社はもっと威信をかけて、気合い入れて作ってそうなのに。

相田 FOXとかサーチライトが下から照らしてたり、東映は波がバシャーンって。あれは映像と音の迫力を伝える意図もあるから、基本的にはダイナミックにしてあるんだと思うんです。ドリームワークスはなんであんなメルヘンなんだろう(笑)。でもいいですよね。この映像を何回も見たことでこの人のなかに蓄積されていった感じがあります。

 ありがとうございます。工藤さん、ここまで聞いてみてどうですか?

工藤 いますごく緊張してて、「ここに捻りがある」って分析された瞬間「私はいまから活け造りにされるんだ……」って思いました(笑)。すごい嬉しい、嬉しいというか、走馬灯の疑似体験だなと思いました。すごく嬉しいです。なんか、3人の歌会ってこうなんですね。

 そうなんです、3人の歌会はけっこう深堀りする時間があっていいですよね。

工藤 普段の歌会は人が多いので、多少ぼーっとしてることもあるんですけど、3人ってこうなんだって。

 なかなか3人という少人数で歌会する機会ってないですからね。では、次の歌に移りたいと思います。

 

枯れた花を飲酒のように 目のまわりに赤と青が滲んだまま

工藤 〈枯れた花を飲酒のように 目のまわりに赤と青が滲んだまま〉。すごく「残像」みたいな歌だなと思いました。実景は「目」だけで、状況はわからない。花にベクトルが向かう飲酒のような動作があって、つまり「飲酒」は何らかの動作の喩として立ち上がってくるんだけど、それが具体的に何かは書かれていない。目のまわりの赤と青も何かは明言しない。なので、ほんとうは別のことを書いているはずなのにたまたま出てきた「目」しか見えないという、そこがすごく不思議だなと思いました。

 何かがなされているはずだけど、読者には「目」しか見えないって感じですね。

工藤 そうなると、概念の三句目が存在しているところも残像っぽいなと思ったんですよ。この歌は字空けによって〈枯れた花を飲酒のように〉と〈目のまわりに赤と青が滲んだまま〉とに分かれるんですけど、上の句の音数が短いわけではなく、字空けの余韻で〈目のまわりに〉と同じ長さを担保している感覚があって。短歌のテキストとしての三句目は〈目のまわりに〉なんですけど、発話として、概念としての三句目はこの字空けが該当するのではないか、という。同時に存在する二つの三句目が重なっているからなおさら、「残像」って感じがしたんだと思います。あとは、枯れた花は〈枯れた〉だから、花からは水分が排除されていて、でも飲酒は水分を補充する行為だから、自分の身体に……あるいはある一つのものに対して、イメージとしては内側にはらみつつ、あるはずがない水分が内側から開放されるという、なんというか、すごく強引な手続きで提示しておいた分岐をバーっと一回並べたくせにギューってするみたいな手付きだなと思って、そこもすごくおもしろかったです。ちょっとまとまってないですが、一回お返しします。

 ありがとうございます。水分のある/なしとか入ってくる/出てくるという過程?みたいなところとか、最後に目だけが実景として立ち現れてくるというあたり、おもしろく聞いていました。相田さんいかがでしょうか?

相田 すごくいまの話おもしろかったです。水分の話、「溢れる」ではなくて「滲む」という動詞も、水量がこのくらいっていうのがこまかく伝わってきますね。〈目のまわりに赤と青が滲んだまま〉の部分、わたしは痣と、視界のなかに赤と青の光がぼやけてるっていう二つのイメージが浮かんで、どちらもあるなって思いました。「飲酒」っていうワードのせいかすごく酩酊感というか、酔っ払ってるときの視界みたいな印象があります。

 工藤さんが「残像」っておっしゃってたのと通じてますね。

相田 はい。それと、赤と青は〈枯れた花〉にも遡ってかかって読めるのかなと。花が枯れるとき最後には全部茶色になるんですけど、その寸前の、茶の中に点々と残る色というのが思い出されました。ふつう、短歌は上から下に読むんですけど、この歌は結句がないというか、〈ように〉〈まま〉と言いさしで終わってるから戻して読む、遡る作用が特にはたらくんだなと思って。工藤さんの、字空けの話もよかったです。なんておっしゃってましたっけ……架空の三句目?

 想定される三句目、みたいな。

工藤 多分、概念の三句目って言ったと思います。

 あ、それだ! なんかわかる。かっこいい言葉ですね。

工藤 相田さんがおっしゃってた〈ように〉〈まま〉で終わってるから戻して読むはほんとにその通りだなと思います。あとの展開を任せるポージングっぽさがあるから突き放されてる感じもするけど、一つひとつの連関というか、筋の通し方がすごく丁寧で、なんていうんだろう。こっちを見られつつ、でも別の方を見ている人、逆にこっちが見ている感があるというか、立ち返ることの大切さをいま、噛み締めて、います(笑)。

 噛み締めてるんですか?(笑)

工藤 噛み締めてます(笑)。

相田 〈ように〉〈まま〉という言いさしで、しかも字空けで分断されているというときに、ガツンって切れてしまってるとなんか、つまんないじゃないですか。それだと短歌として一首になってない感じがするかなと思うんですけど、「花」と「色」のつながりの強さとか、「飲酒」と「目」もけっこう近い気がしてて。さりげなく細い糸がつながってる感じがするので、空中分解してないって思いました。

工藤 今回の温さんの歌は、以前の歌会記で出ていた〈ムーミンが照れたみたいな色の空 骨まで照れてしまったような〉とはまた別のアプローチっぽいなと思って、そこはすごい興味があります。

 あー、そうですね。なんか短歌においてはすべての色がいい色なので、なんかこんなこと言うのもあれですけど、色の名前いくつかと花と飲酒を放り込めば、短歌サイドが絶対にいい歌にしてくれる、みたいなところがあります。僕が歌に入れられる色の数ってスプラトゥーンくらいで終わってるんですけど……。

相田 なんか抽象的な赤、青みたいな(笑)。

 「赤」とだけいえば自動で、いちばん綺麗な赤にしてくれるから(笑)。それは短歌文脈の持つ力ですよね。ムーミンの歌は色そのものが主題で、色をどうやってモチーフで映(ば)えさせるかという役割分担だったけど、今回は逆かもしれませんね。色によってモチーフにイメージの導線を引いてあげるみたいな。それではこの歌はこのへんで閉めて、次の歌に行きたいと思います。

 

フリーズドライの雑炊はお湯にゆるんで窓に触っている外の枝

 〈フリーズドライの雑炊はお湯にゆるんで窓に触っている外の枝〉。お湯にゆるんでいるフリーズドライの雑炊と、窓に触れている枝、の二つがゆるく並列している作りの歌ですね。まずは〈フリーズドライの雑炊はお湯にゆるんで〉に注目したいです。あれ毎回、感動しますよね。こんなバブみたいな固形物が雑炊になるわけないじゃんって毎回思うんだけど、いざお湯を注ぐとみるみるうちに雑炊になっていくという、この感動が「フリーズドライの雑炊」という語に蓄積されてて。そこに、〈窓に触っている外の枝〉が提示されている。あの、窓にカスカスって、触っているような伸び方をしているということだと思うんですけど。なにか、この二つにこういう共通点がありますっていう話ができるわけではなさそうです。なんとなくその、心に残る一場面というか、こういうことってあるなぁという場面が、いい感じの距離感で提示されている。そんな歌かなと思いました。工藤さんいかがでしょうか?

工藤 構図が、上の句と下の句で似てるなぁ、と思って。最近「内」と「外」の話ばかり考えてるんですけど、フリーズドライの雑炊のまわりにあるお湯と、わたしがいる空間を取り囲んでいる外、にある枝。ここの構図が似てて、でも接続のしかたがかなり違っていて。フリーズドライの雑炊は徐々にゆるんでいくから、境界線はあいまいになっていく。でも下の句では「窓」があるから、断絶されている。その二つを串刺しにしている、〈ゆるんで〉の〈で〉がいいなと思いました。どちらも生活に即した身近な場面で、感情を述べずに景色の描写にとどまっているから、たたずまいがすごく綺麗だなとも思います。この対立構造は、〈雑炊は〉の〈は〉が担保してるのかもしれないですね。フリーズドライの雑炊はすごい。

 ありがとうございます。フリーズドライの雑炊はほんとにすごいですよね。

工藤 すごい。すごいです。詠草にメモしてるんですけど、この歌のフリーズドライのところに矢印して、ちっちゃく「すげー」って書いてあります(笑)。

温 あ、すみません、フリーズドライの雑炊そのものがすごいって意味で言ってました(笑)。工藤さん的には、〈フリーズドライの雑炊〉を斡旋する、語の選択がすごいってことですよね。

工藤 あ、そうです(笑)。

 どっちもすごいと思います。相田さんどうでしょうか?

相田 実際、フリーズドライ技術はすごくて、自分の文体的にあんまり華々しく称えられてないかもしれないんですけど、結構しっかり、本当にすごいと思っているのが伝わったみたいで嬉しかったです。

工藤 すこし別の話で、韻律なんですけど。7・5・6・7・7なんですよね。初句7音であることで、認知がずれる。2句目になぜか5音が出てきているから、韻律に即しているっぽく見えて。なにか方向感覚を狂わせて、こっちが北だよって指し示されているみたいな。

 たしかに。もちろん短歌なので5・7・5・7・7は背景に滲んでいるんですけど、そのうえで7・5・6・7・7が成立しているのが綺麗でした。個人的な感覚なんですけど、こう二つのものを提示されるっていう作りだと、定型に沿っているとちょっと嫌だなって思って。すでに音韻として明確な区分けがあるところに、きっちり沿って意味的に分かれたものが提示されても、あまり感動がないっていうことなのかな。まぁ音韻話は、体調の問題もありますね。

相田 さっき工藤さんが「内」と「外」のことを考えてるっておっしゃってたんですけど、わたしもめっちゃ「内」と「外」のことばっかりになっちゃうんですよね。

工藤 わかります。ずっと、ベクトルの向きばっかり追ってる。

相田 あ、わかるわかる。めっちゃわかるそれ。ベクトルのことをすごい、熱く語っちゃいます。

 ベクトルって、言葉どうしがどう向き合ってるかってことですか?

相田 それもありますけど、単純に描かれている景のなかに存在するベクトルです。たとえば一首目の〈三日月は釣りに適した椅子であることは映画館で教わった〉なら、釣り糸がこう、下に垂れてるじゃないですか。それで三日月はやや斜めに向いている。映画のスクリーンがあって、人がこう傾いて、客席に座ってるよ、みたいな。

 一回全部の景をイラレに落としこんでます?

相田 でもなんか、力の、力のことです。

工藤 動きの略図化みたいな。この動作はここからこっちに向かって進んでいる、みたいなことですね。

 あぁ、なるほど……力か。景のなかのオブジェクトが持っている、力のベクトルってことですね。そんなこと考えたこともなかったです。いまけっこうびっくりしました。そんな読み方があるんだって。

相田 そこに興味がありすぎて、ほんとにベクトルだけで作っちゃうから、歌会とかで「感情が一言も書かれていないのですが」とか言われるんですけど……(笑)、いやいまベクトルの話してるんで、みたいな(笑)。

 おもしろい。デザインの話みたい。え、フリーズドライにお湯をかけてそれが崩れていく過程って、ベクトルで考えるとすごく良質じゃないですか?

相田 あ、多分それが好きなんだと思います。こう、お湯が落ちて、器のなかでこう広がる。

 で、窓に触っている外の枝ですもんね。こう伸びてるけど、そこに窓があるから、窓によってこうなると。わー、なるほど(笑)。この歌の読みかた、ほんと初めてインストールしました。ちょっと待ってくださいね(文學界5月号を持ってくる)、文學界に載ってる相田さんの歌もみんなベクトルじゃないですか? 何ページだっけ……。

工藤 108ページです。

 ありがとうございます。わー、笑えるほどベクトルが発生してるな。ていうか、プロフィール文の「速度と方向が組み合わさりある一つのまとまりとして感じられるときがあり、その感触に関心を持って作歌しています」ってこれ、ネタバレみたいなもんじゃないですか。

相田 ネタバレですね(笑)。なんかベクトルのことで、工藤さんとの共通点が最後に(笑)。

工藤 よかったです(笑)。ありがとうございます。

 それではこのあたりで、3首目も終わりたいと思います。本日はありがとうございました!

相田 ありがとうございました。

工藤 ありがとうございました。

(2022年8月21日、Zoomにて)

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