うたポル歌会記―睦月都、吉田恭大、温(2021年9月9日)

歌会記

参加者

睦月都(むつき みやこ)
@xen_00 かばん所属。「神保町歌会」「うたとポルスカ」運営。

吉田恭大(よしだ やすひろ)
@nanka_daya 「北赤羽歌会」「うたとポルスカ」運営。塔。第一歌集『光と私語』(二〇一九年・いぬのせなか座)。

温(あたむ)<司会・記>
@mizunomi777 「GEM」同人、「うたとポルスカ」運営。

詠草

葉洩れ陽を白い日傘にうけるとき浮きあがる屋上遊園地
(睦月都)

ポート ポート そんなふうに港のことを、呼ぶの? もしかして魚視点?
(温)

写真だけ撮ったという写真のなかで二人が乗っている人力車
(吉田恭大)

歌会記

 お集まりいただきありがとうございます。「うたとポルスカ」の歌会記は三鷹の「りんてん舎」にお邪魔して以来ですが、また今後、ずいずいやっていきたいなと思います。まずは運営三名で、本日はよろしくお願いします。

睦月 よろしくお願いします。

吉田 よろしくお願いします。

 いつも僕たちがやる歌会だと無記名(作者不明で評をする)が多いですが、今回は三人の三首なので記名でやります。既発表作品もあり。作者の人は、自分の歌のターンでもじゃかじゃか入ってきてください。
では、一首目から始めていきましょう。睦月さんの歌です。

葉洩れ陽を白い日傘にうけるとき浮きあがる屋上遊園地

吉田 〈葉洩れ陽を白い日傘にうけるとき浮きあがる屋上遊園地〉。「はもれび」でいいんだよね? なんか「はもれび」って「こもれび」に比べて馴染みが薄くて。でも、いま口に出して言ってみたら、すごく言いやすい音だなと。

 なんか馴染みのある音ですよね。「ハモり」とかで聞いたことがある。

吉田 そう、「ハモり」とかが引っ張られてくる。それで、葉洩れ陽は木洩れ陽と同じく葉から透けて見える日差しのことだと思うんだけど、それをうける白い日傘があって、日傘の内側から見える光とか影のにぎやかな感じが、屋上遊園地を浮きあがらせているのかな。
おもしろいのが、ちゃんと視覚的に屋上遊園地っぽいものが浮かびあがるってよりかは、光の加減とかちらちらする雰囲気とか、そういうもので屋上遊園地が引き出されているような気がして。具体的に「ここが回転木馬だ」とか「ここが観覧車だ」という話ではなく、日傘にうける明るさそのものが、百貨店に上にあるよきものとしての屋上遊園地に被ってくるのかなと思います。

 ありがとうございます。そうですね、具体的に似ているわけではないんだけど、何かイメージ上の類似点が屋上遊園地を浮きあがらせているという。よくわかります。うーん、「白」がイメージの結節点なのかな。屋上遊園地って確かにカラフルなんだけど、でも基礎的には「白」って感じしますよね。白っぽい屋上が妙にまぶしくて、その上にカラフルなものが乗っかってるような。だや(吉田)さん、そのあたりどう思いますか?

吉田 日傘が白いことについては、浮きあがるということも考慮すると、スクリーンとして機能しているってことなのかなと。

 あ、スクリーンは間違いなくそうですね。

吉田 葉洩れ陽を直接見るよりも、白い日傘ごしに見るほうがコントラストや明暗がはっきりするはずで、これが黒い日傘だったら浮きあがらないんですよ。

 いまスクリーンって聞いてけっこうピンと来たような気がして、レトロな映画のイメージが接続したのかも。スクリーンに投影する仕組みってわりあいアナログで、ちょっと古びたかわいらしい感触があると思うんですよ。この感触が無意識的に屋上遊園地と響き合ったおかげで、具体的な指示関係ではないルートで接続できたんじゃないかな。

吉田 いま葉洩れ陽について見識を深めようと画像検索してみたんだけど、葉洩れ陽も木洩れ陽も基本的に同じものですね。「木洩れ陽をうける」だと語として順当すぎるから変わったのかな。

 木洩れ陽ってよい温度感と安心感のある語だから、生活において使用されがちですもんね。病院とか介護施設とかの名前にありそう。睦月さん、自分の歌ですがどうですか?

睦月 おおよそ、作者として考えていたのと一致した読みをしてもらえたかなと思います。「白」についての指摘とかおもしろかったですね。私としては温くんが言ってた、屋上遊園地の殺風景で白いイメージを持っていたんだけど、確かにスクリーンもあるなぁ。「屋上遊園地」もちょっと突飛かなと思っていたけど、影絵みたいな雰囲気で読んでもらえたのかなと。

  屋上遊園地、音もいいですよね。おく/じょう で結句に入っていくと、「おく」で溜めて「じょう!」で浮きあがってくる感じがする。しかも漢字五文字で結句を締めることで、歌の端っこで文鎮のように重心になってくれて、歌全体に安定感が出るし。

睦月 この歌、こないだ「うたとポルスカ通信 vol.2」の井の頭公園吟行で作ったやつです。それで吉祥寺に、もうないらしいんだけど、むかし屋上遊園地があったって聞いて。

吉田 丸井のとこ?

睦月 いや、東急のとこ。私はたぶん行ったことあるんだけど。同じ東急なら渋谷とかもよく行ったし。でも、どちらももうないなぁ……みたいな。

 睦月さんの歌って、こういう死亡した、幽霊みたいなやついっぱい出てきますよね。「すでにない」ものが、さも「まだある」かのように、透過率50%くらいでうっすらと。

睦月 そうかも(笑)。透過率50%くらいの亡霊がめちゃめちゃいるかもしれない。

吉田 あとで解題を聞くと、ちょっとヒヤッとするみたいな。えっ、さっきの店員さんは……っていう。

  そこは三カ月前に、潰れてたんですよ、みたいなね。それでは次の歌にいきたいと思います。僕の歌ですね。

ポート ポート そんなふうに港のことを、呼ぶの? もしかして魚視点?

睦月 〈ポート ポート そんなふうに港のことを、呼ぶの? もしかして魚視点?〉。いま声に出してみても、「呼ぶの?」あたりまでの語感のよさがいいなぁと思いますね。「ポート ポート」が2回繰り返されて、何のことかはよくわかんないんですけど。ポートって港を意味する簡単な英単語、でも「ポート ポート」って言われるとオノマトペみたい。それはひとつ開発なのかなと思います。
で、「そんなふうに港のことを、呼ぶの?」。誰かに言っているというよりは、「ポート」という単語そのものに向けて言っているという感じの、これが歌としていい効果が出ているかはわかんないですけど、言葉に対する愛着を感じておもしろいなと思いました。読点も、わりと感じのよい使われ方をしていて。
その後、一字空いての「もしかして魚視点?」をどう読むのかが難所かな。意味はわからんでもないというか、ここで「魚視点」が出てくることで「ポート ポート」のオノマトペ性が増す……、魚がぷくぷく吹いてる泡が昇っていく音に聞こえるようになるんですよ。でも、なんだか急にこっちが巻き込まれて同じ思考回路を強要されている気がして、それにちょっと引いてしまうかなぁ。

 具体性がなかったところに急に具体性が生まれて、この世界に付き合わなきゃいけなくなった、という感じですかね。

睦月 そうですね。穂村弘の初期の歌なんかで造語でいちゃついてるのって、本当にない語でいちゃついていて、だから読者は安全圏なんだけど、これはそうじゃないじゃないですか。港のことは事実としてポートと呼ぶし。だからか、ちょっとギョッとするんですかね。

温 ありがとうございます。だやさんどうでしょうか?

吉田 「もしかして魚視点?」でこっち側に振られる感じは私も思いました。ポートという語に対する相手を特定しない疑問が、「もしかして魚視点?」によって急にこちらに特定して問われているような。このクエスチョンマークの、一個目までだったら気にしなくていいんですよ。二個目が入ったときに急にこっち向いてきて、怖い(笑)。魚視点で詠まれた短歌、あんまり知らないし、そんときはまだ怖さがおもしろいなと思ったんだけど。
ただ、理屈を逆算してしまうと微妙な気がする。魚視点と大きめにふってみた割には、人間の理屈で港をポートと呼べちゃう気がするんですよね。そこが、そんなに驚きがなかったのかな。

睦月 魚視点の短歌、水原紫苑さんの〈われらかつて魚なりし頃かたらひし藻の蔭に似るゆふぐれ来たる〉(「からまつ」、『びあんか』、雁書館)がありますね。私も、魚じゃないですけど貝視点の歌は詠んだことあるな。なんだっけ……、〈砂潜るわれが貝ならあふぎみて鯨は一羽二羽と数へむ〉(「夏の影」、『短歌』2018年10月号、角川文化振興財団)。

吉田 主体が成り代わっちゃえばあるか。魚視点も貝視点も。

温 「もしかして魚視点?」は、理屈があるような言い方によって、冒頭に出てきた理屈のない「ポート」の味を変えてしまうのかな。

吉田 そう、「ポート」は英語で港のこと、という理屈が音のおもしろさよりも先に来ちゃう気がして。

睦月 私はむしろ、港をポートと呼ぶのは魚視点だ、という発見じたいは意外といいんじゃないか? と思っていて、うーん、「もしかして魚視点?」は理屈っぽいようで、こっちに考えさせることが多すぎるのかな。問いかけでなく、作者本人の呟きくらいなら違和感がなかったかも。

吉田 「もしかして」って言われることで、これ問いかける側には予感があるんですよね。誘導されているというか、少なくとも虫視点ではなく魚視点だろうという見当はついているわけで。そこが、先回りして答えを用意されてしまったようにも見えるのかもしれない。

睦月 「もしかして」が強いのかな。なんか思わせぶりな、「もしかしてそう思ってるの?」って聞かれたら、「いや違うけど」って言いたくなるじゃん(笑)。

吉田 だからそっか、「もしかして」の決め技感があることによって、前半の「ポート」部分も誘導尋問みたいな予定調和が見えちゃうのか。

温 「もしかして」によって、その理屈が成立するメカニズムなり世界なりが変に予感されてしまうのが予定調和っぽいのかな。

睦月 いや、そこまで難しいことでも……わかってきました。「もしかして魚視点?」って、あれなんだよね。この作者が「魚視点だ」って思ってるわけじゃなくて、「あなたは、もしかして魚視点だって思ってるの? だからポートって呼んでるの?」って、こっちの問題になるんだよ。いままであなたの発想のことを聞いてると思っていたのに、いきなりこっちが主語にされて疑問符を投げかけられるから、こっちは「いや違いますけど!」みたいな。それがギョッとしたことの正体かもしれない。

温 あー、なるほど! それはなんか、わかったかもしれません。

吉田 あの、踏み込んでくる同級生の会話だよね(笑)。

 踏み込んでくる同級生ね(笑)。僕、けっこういろんな歌で近い評されること多いんですよ。「誘導尋問」とか何回か言われたことある。「急にこっちを向く」とか、「なんか言わなきゃいけないのかな」もよく聞く。なんでそんなこと言われるんだろ? って不思議だったんだけど、そういう構造か。長年の疑問が解決したかも。自分の歌に客観視、なかなかできないものですね。

吉田 「誘導尋問」とか「こっちみんな」とか、何回か言ったことあるわ(笑)。急にこっち向く感じ、温さんよくやるよね。

温 言われてみれば。っていうか、いま自分の歌を見返してるんだけど、めっちゃめちゃある。〈甘食は沈みてゆけり 甘食はかなし 電球みたいね〉(「町の灯り/甘食」、Twitter)とか、まったく同じパターンだな。自分の意見を話してるのかと思ったら、質問してくるみたいなね。

睦月 そうね、意見をまとめてから喋ってほしい、みたいな感じになりますね(笑)。

温 なるなる(笑)。さて、二首目はこのへんで終わりにします。ありがとうございました。次はだやさんの歌です。

写真だけ撮ったという写真のなかで二人が乗っている人力車

 〈写真だけ撮ったという写真のなかで二人が乗っている人力車〉。観光地とかかな。たとえば浅草に行ったという話を、この人は誰かから聞いていて。その人は観光地で、「おっ人力車あんじゃん」と見つけるわけですよね。人力車のお兄さんに話しかけられたりしつつ、これ乗ろうかなどうしようかな、でもまぁ乗るのはちょっとなーということで、写真だけ撮らせてもらいました……そんな話を聞いている、という状況だと思いました。その、乗って引いてもらうんじゃなくて、写真だけ撮らせてもらうっていう人力車の非有効活用に、独特の味があるって感じですかね。

睦月 温くんの読みは、この「二人」は「写真だけ撮った」と言っている本人+その同伴者の二人、ってことだよね。

温 そうです。

睦月 私も短歌的には、既に出てきた人が「二人」に含まれるのが順当だと思ったんだけど、それって可能なのか? と迷ってしまって。「すみません、乗らないしお金は払わないんだけど写真だけ撮らせてください」ってアリなのか、というか現実的に起こりうるのか、っていう(笑)。

 ふつうナシでしょうね(笑)。

睦月 だよね? だから、もしかして道端ですれ違っただけの、全然知らない二人が人力車に乗ってたのを見たって可能性もあるのかなと。

 確かに、その可能性もありますね。っていうか、乗りはしないが写真だけ撮ったんだってナチュラルに思っちゃったけど、普通にルール違反ですね。だって、鳥取砂丘のラクダなんて、そのへんから撮るのもお金取るんでしょ。

吉田 ラクダ単体で撮るといくら、自分が乗って撮るといくら、だそうです。

睦月 とはいえまったく見知らぬ二人が写ってるという話なら、それはそれで短歌の暗黙のルールを破ってて、……だからどっちを破るかなんですよ。短歌のルールを破るか、現実のルールを破るか。

 王手飛車取りみたいになってきましたね。でもこれ、もし見知らぬ二人がそこを通っただけというのなら、その二人……なんか神話的というか、王族、皇族っぽい? そのワンシーンを描いた絵みたいな印象がある。

睦月 そうそう。写真に収まってる感じが、なんかレトロっぽくもあり。

 あ、確かにこの歌、レトロ要素ありますね。写真があって、その中心に人力車があって。そういう語のよさとか情景のよさもこの歌の美点かな。

睦月 短歌の構造についてもう一つ指摘しておきたいんだけど、「写真」が二回出てくるじゃないですか。まず冒頭にあって、中盤くらいに再登場して、同じ語だけど別の角度から書き直すみたいなことって、二、三年前くらいから歌会でよく見る気がします。あまりにもよく見るので、最近は見かけると内容を読む前に「うっ、またか」ってなっちゃう。もちろん、歌にとってその構造が本当に最適ならいいのだけど……。っていうか、だやさん最近、これ多くないですか(笑)。

吉田 私はもうずっとトートロジーをやってますからね。

睦月 これ禁止して二十首連作とか作りましょうよ。

 でもけっこうこの歌は、「わたしたちトートロジー短歌です!」っていう括りの中でも、かなり優等生な子って気がしません? 二回目の「写真」が出てくるタイミングもさりげないし、違和感がないというか、ちょうどよい心地だと思うんです。

睦月 なんだよ、「わたしたちトートロジー短歌です!」って。

 「みなさんは、何の括りですか?」「わたしたちは、トートロジー短歌です!」みたいな。やっぱりだやさんが、MCに一番近い席に座るんでしょうね。

睦月 そんな元気よく名乗るもんでもないだろ。

吉田 この写真、実体験としてはウェディングフォトだったんですよ。

 え? あ、そうなんだ。

吉田 このご時勢もあって、「写真だけ撮った」がフレーズとして成立しているのがおもしろいと思ったんだけど。「二人」の関係性をどのくらい説明するべきかは、自分の中でまだ曖昧なんですよね。

睦月 「写真だけ撮った」って人力車のことじゃなくて、「(結婚に際して式は挙げなかったけど)写真だけ撮った」だったんだ。確かに結婚とか、そういうシーンで出てくる表現ではある。でも、ちょっと文脈がわかんなかったな。

 この「二人」、本当はいまの話を聞かなくても恋人や配偶者として読めたと思うんだけど、この歌の文体がそれをやや拒んでいるというか、あくまで数としての「二人」だと読みたくなる文体である、っていうのも手伝っているかもしれないですね。リフレインによって単語の味が落とされていたり、この人の心情が述べられずに構造だけ提示されていたり。

吉田 写真の特定を避けたことで、二人の関係性を特定する読み筋も薄まるんだなって、聞いてて納得しました。友達の結婚っていう、苦手なモチーフを自分の味付けでどうにかしたかったんだけど(笑)。

 強敵に立ち向かう気負いで、つい手になじんだ愛剣(リフレイン)に手を伸ばしちゃったということか?

睦月 そういうことなのか(笑)。

 でも、ウェディングフォトが読みとして出なかったとはいえ、伝わり方の塩梅としてはよかったのではないでしょうか。二人が人力車に乗っている写真、という「よき構図」のよい雰囲気だけが伝わってくるという。

吉田 そうそう、それはよかった。

 では三首目もここらへんで締めたいと思います。特に作者発表とかないから、締め方がわかんないな。でも、たまに少人数で歌会やると新鮮で、楽しかったですね。ありがとうございました!

睦月 ありがとうございました!

吉田 ありがとうございました!

(2021年9月9日、Zoomにて)

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