【ブックレビュー】『稀風社の水辺』(執筆者:温)

 稀風社が出しているから『稀風社の』と付く。じゃあこの本の本体は『水辺』か。『稀風社の水辺』。ここは水辺です。

 著者は、稀風社の三上春海と鈴木ちはね、そしてゲストとして参加している水沼朔太郎の3人と記されている。この人たちがたとえば同一の題のもとにきっちり同じ数の短歌連作を寄せているというわけではなくて、それぞれがなんとなく離れた場所で、とはいえうっすらと何かを共有して、短歌作品や散文を個々に書いているようだ。そして3というバランスゆえに、それぞれの非統一的な動きがかえってカメラを引いた際の絵面を整えているように感じる。ここは3人がいる水辺です。

 だから書評と言って、この本の内容を本質的に掬いあげて一貫したコメントを付けるのではなく、ひとつの川でそれぞれ水を飲んでいるキリンとヌーとガゼル(順不同)を動物ドキュメンタリーの頻度でカメラを切り替えて抜いていくのが、この本に対する適切なアプローチであるように思う。本の全貌については、もう持っている人は読み返してほしいですし、まだ持っていない人はぜひ下北沢BOOKSHOP TRAVELLER内「うたとポルスカ」の棚で買ってみてください(在庫切れだったらごめんなさい)。

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 つまり「考えている」ということではないかと思う。この本は考えている本である。3つの著者名が共有しているものは、熟々と考える姿勢である。そのように言えそうだ。

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 たとえば三上春海の「献本御礼/論(二〇一六)」は、短歌出版業界における献本・謹呈制度について(これは手元に届いた献本に対する返礼である、というスタンスを危うくも貫きながら)何者かが考えを巡らせている作品である。論考と受け取れる文章が基礎でありつつも、その文章の一部が定型に切り取られたかのようにふいに抜擢され、あたかも詞書と短歌のような形式に巻き込まれている(巻き込んでいる?)。

 ……おそらく(経済的な理由により)いつまでも歌集を出すことのないわたしは、あるいはわたしたちは、

感想を書くしかないという想いがツイッターにも散見されて、

 たとえば染野さんの『人魚』の感想が一時期ツイッターに多く見られたりもしたけれど。……

 それで、考えている何者かが何者かというと、どうなんだろう。これが評論として提出されたのなら三上春海だと了解してよい、短歌連作として提出されたのならいったん保留をかけなければならない、とわたしの脳はアラートする。や、でも、なんで? 短歌の作者が短歌の作中主体と同一であるとは言えないから。それはそう。作者ないし実在の生活者が現実に即して歌を詠んでいるという認識の前提化は、単純に根拠不十分だし、押し通せばすぐに短歌から豊かさを吸い上げてしまうとわたしは思う。ではなぜ評論なら、文中の「わたし」を三上晴海だと了解可能なのだろうか。だってこの文章においては評論と作品が分化されうること自体を疑わなくてはならないし、それは本当は、ほかの評論だって同じことじゃん。論中主体などというものは設定されない(この世に存在しない)のだろうか。どのような理由によって?

 書かれている内容としての献本・謹呈制度に対する論考も読みごたえがある。通貨として歌集歌書を取り扱うこと、交換制度としての献本・謹呈、そこに生まれる不平等とそれを排除したときにおとずれる別の不平等……。献本なるものにもちろんあずかったことがなく、村の伝説のように聞いているわたしにとっても、短歌社会(!)を構成する一員として興味をおぼえる議論だ。

 つまるところこの連作においては、連作のフレームそのものにある種の問いと思考が埋め込まれているという状況下で、献本・謹呈制度に関する問いと思考が行われているのだと思う。貪欲~……

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 水沼朔太郎の120首「飛び込んでくる」ではむしろ、読者であるわたしの側が思考するための種のようなものが次々とわんこそばライクに提供される。収められているのはたとえばこのような歌たちだ。

  暖房の24度と冷房の24度はどうして違うの

  兄からのメモ書きに〈ジャージ56枚〉中学生でも頼まないから

  ガルマンオブガルマン、ベテラン中学生、水沼朔太郎で乾杯

 設定、ということについて考えさせられる。わたしの意思もしくはわたしを超越した何者かの意思によって、ある状況が作られ、定められること。

 1首目、エアコンの温度を設定するときわたしは意思をもって室内の温度を左右しようとしているわけだけど、わたしの「室温を24度に設定したい」という意思を越えた先験的な地点で「暖房」「冷房」という区分けがすでに設定されていて、なぜか「暖房の24度と冷房の24度が違う(と感じる)」事態が発生する。この人はそのことを不思議がっている。わたしも、さっきまで不思議がっていなかったのに、この歌を読み終わったいまは不思議がっている。

 2首目、「56枚」(原文は縦書き)ってどう読むんだろう。「ご、ろくまい」とも読めるし「ごじゅうろくまい」とも読める。テキスト内に決め手はない。読者は好きな方に設定して読むことができる。そして興味ぶかいことに、この二つの可能性は同値ではない。音数からしても常識からしても「ご、ろくまい」と読むのが適切で、「ごじゅうろくまい」であるわけがないのだ。「ご、ろくまい」だって中学生でも頼まないほど十分多いので破綻はなく、敢えて「ごじゅうろくまい」と読む正当性はない。……そう考えるほど、「ごじゅうろくまい」への欲望が蛇のように首をもたげるのを感じる。ごじゅうろくまい、の、ジャージ。想像上で(なぜか)体育館に整然と並べられるジャージ。すこし悪夢的な、やや眩暈をおぼえる光景だ。はたして歌をおもしろく読めば勝ちなのか、おもしろく設定するために何かを捻じ曲げてしまうのは不真面目なのか、下品なのか、不適切なのか、みたいなことをぐるぐる考えさせられる(もっと言うとこの問いは、「兄からのメモ書き」に対して読者であるこの人の問いでもあり、ここにパラレルな構造が存在することにも注目したい)。

 3首目、ある人物をガルマンオブガルマン(第100回もしくは第200回ガルマン歌会でトップ票を獲得した人物、それぞれ吉田恭大と御殿山みなみが該当する)と、ベテラン中学生(青松輝のTwitterアカウント名)と、ひいては水沼朔太郎(そういう作者名)と呼ぶとき、それは各人物をそのように設定しているということに相違ない。その呼び名が連れてくるものが、その呼び名を聞く人間にどう作用するかをファクターとして、設定は使い分けられる。言うまでもなく、ファクターは受け手によって然るべく異なる。そもそもわたしがさきほど括弧内に置いた呼び名の解説も正しいものか、正しいとして短歌社会の内側でさえどれくらい共有されうるものか、気になるところだ。いずれも有名な歌人だと思うけど、それにしても大胆。読者層が事前に設定されているとも言えるだろうか? こういうの、大胆さを競う度胸合戦にも見えて(短歌作者でもある)読者のわたしに嫌気がささないわけではないが、そういうわたしの反応も含めて、この歌の思考の種というところだろう。

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 鈴木ちはねは短歌作品も寄せているけど、「最近考えていること」という散文を見てみたい。これは、睦月都が「抑止する修辞、増幅しない歌」(『短歌』2019年10月号「歌壇時評」、角川文化振興財団)で唱えた短歌の「増幅」機能と「増幅しない歌」という着眼を論の端緒として、短歌作者であるところの鈴木ちはねが、「増幅しない歌」とはいかなる文脈におけるいかなる目的による営為なのか考えている論考である。

 論の内容は原文を読んでもらいたくてそれはともかく、「わからない」から始めて客体的に「増幅しない歌」を考察していく睦月都の書き味と、自身が「増幅しない歌」の作者であるらしいと聞かされ、主体として検討していく鈴木ちはねの書き味とが対照的でとてもおもしろいのだけどそれもともかく、わたしが考えさせられたのは短歌が「増幅」させている意味というものについて、である。短歌定型はその表現意図を「増幅」する機能を持っていて、近年生まれている(五島諭以降の?)いくつかの歌はその「増幅」機能を回避するように書かれている、ということだと思うんだけど、わたしとしては、意味を「増幅」していく機能の問題を回避する方策として、「増幅しない」意味を乗せるというのはかなり限定的な対処なんじゃないか、という気がする。むしろ意味を軽量化/濾過して「増幅」を無力化するとか、.zipファイルを破壊して解凍不能にするとか、そういう方面のほうが有効な対策であるように思うけど、これはこれで少々無責任な立場かもしれない。それに当たり前のこととして、短歌は「増幅」の抱える問題を回避しさえすれば偉いという競技ではない。

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 最後に、三上春海の散文「そして歌人になった ―続・石井さんについて―」もかなり気になったので軽く触れておきたい。三上春海の「作品」が評論と短歌作品というジャンルに対して未分化であると先述したけど、この散文においてはなんというか、石井僚一の作品に対する歌評と石井僚一さんに対する個人的な感情とが未分化の状態で書かれていて、そのことにわたしは戸惑いも幸福も悲しみもあこがれも(それこそ未分化の感情を)覚えたりする。いずれにせよ、三上春海のこの未分化性(非分化性?)とは無邪気な分化に対する対処なのかもしれないな、と思う。

 わたし自身は、石井僚一さんのことはよく知らない。歌集を読んですごい作者だなと思った2018年初めと、歌集批評会に行った2018年5月と、おなじ歌会に半年ほどすれ違った2018年後半をわたし個人の思い出として持っているくらい。短歌をやめたらしいことも人からはよく聞くけど、そのことが何を指すのか正しく理解できている自信はない。ともかく、三上春海の、石井僚一の連作に対する非常にすぐれた評を含む散文が個人的な手記と分化されていない形態に対し、わたしが奇妙な納得をしてしまうことの方に、わたしはすこしそわそわする。

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 稀風社さんはあらゆる社のなかでもっとも好きな社なので、

 ね〜、と思う。

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