【ブックレビュー】『サーキュレーターズ 短歌時評』(土岐友浩、2019年)

(執筆者:温)

詩の読者のための短歌時評という機会を与えられて、僕が自分に課したことはふたつ。ひとつは現代短歌の注目するべき作品を、できるだけ幅広く取り上げること。もうひとつは短歌形式の本質を掘り下げていきながら、詩との差異を明らかにしたい、ということでした。

「はじめに」 ー 『サーキュレーターズ 短歌時評』(土岐友浩、2019年)

 詩の冊子で短歌時評を書くって、「フリースタイルダンジョン」のJUMBO MAATCHみたいなことをやってるなー……と、まずは思った。ヒップホップとレゲエが隣町であるように、詩と短歌も(おそらく)隣町である。物理的な話、だいたいの本屋でわたしたちは隣の棚に住んでいる。たぶんいろんな議論とか有名人を、微妙に共有していて、微妙に共有していないのだろう。お互いがお互いのパラレルワールドみたいな感じかもしれない。詩人の最果タヒと歌人の穂村弘との対談を読んだことがあって、あれはほんとにパラレルワールドに住む人どうしがお互いの差異に驚いている記録みたいだった(『ユリイカ 8月号』、青土社、2016年)。

 『サーキュレーターズ 短歌時評』は、詩の冊子「びーぐる 詩の海へ」第37号~44号に掲載された土岐友浩の短歌時評全8回を一冊の本にまとめたものらしい。目次は以下の通り。

  • 自由律について
  • 詞書について
  • 結句について
  • 一字空けについて
  • 字足らずについて
  • 大破調について
  • 関西弁について
  • 夕暮れについて

 短歌と詩との差異を明らかにするとは、とりもなおさず短歌定型とは何かを問うことだ。8回の論考はそれぞれ異なるテーマに臨んでいるように見えるけれど、実質的には一貫して短歌定型を論じているのだと思う。定型の機能――たとえば定型との関係に依拠して韻律が生まれること、定型の内/外という概念が生まれること、定型の内のポジショニングのこと、定型がはらむ属性のこと、といったいくつかの観点をとっかかりにして。

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 第一回の時評の後日談として、

現代短歌を問うためには、まず何について書くべきか考えて、時評の第一回は「韻律」をテーマにしました。

「時評の後日談・その1」

と土岐は語っているんだけど、「韻律について」の話をしようとして「自由律について」と題するところがいかしている。

 自由律とは、短歌定型があるのかないのかという短歌にとっての根本的な問題を洗うにもっとも適した題材であろう。だって意味がわかんない。定型こそが定型詩を定型詩たらしめるのだから、定型からまったく逸脱してしまえばそれは自由詩なのではないか。そう疑義を唱えられればそれは、なんと言うかごもっともである。たとえば土岐が「限りなく自由律に近い」と紹介している瀬戸夏子の作品は、

窓から感情がポテトチップスとして降ってくる 夜というよりも昼

心臓が売りものとなることをかたときも忘れずに いつかあなたの心臓を奪うだろう

『かわいい海とかわいくない海 end.』書肆侃侃房、2016年

というもの。定型を遵守していないこれらは短歌ではなく短詩ではないかと迫られればそれをあえて覆す論理はわたしの側にはない。果たしてそこに定型はあるんだろうか――いや、そもそも非主観的に定型があるとかないとか、そんな判断があり得るだろうか。詩歌の世界を出たらどうだろう。たとえば広告のキャッチコピーたちは? 「24時間戦えますか。」(リゲイン)や「あした、なに着て生きていく?」(earth music & ecology)あたりに目をやれば、そこには明らかに定型の効果がきいているように見える。では「ヒューマン・ヘルスケアのエーザイ」(エーザイ株式会社)や「おいしい生活」(西武百貨店)はどうだろう。そこに定型は存在するのか?

 2ちゃんねるでその昔、

墓地が無料!急いで死ね!

というスレッドがあって、タイトルの衝撃性が話題を呼んでいたけど、この6・6のリズムは7・7に対して1音ずつ少ないがためにその意味文脈における力を増幅させているだろうか、いないだろうか?

 なんなら土岐は真逆の体験について話してくれていて、尾崎放哉の

  入れものが無い両手で受ける

という長年知っていた自由律俳句に、ふと気がつくまでいかなる定型性も読みとることができなかったのだと言う。なるほど、この句は7・7で構成されている。短歌定型の下句と同じ音数だから、その読みにおいて定型による補助を得てもおかしくない。けれど土岐はこんな風に述べる。

言うまでもなく放哉は、自由律俳句の作者である。この句が恐ろしいのは、短歌の下句と同じ7・7になっているくらいでは、定型という「入れもの」に決して収まらない、放哉の言葉は、はてしなく流れていくばかりの、そういう何ものなのかなのだと、「句」自体が囁いているからだ。

「自由律について」

 「言うまでもなく放哉は、自由律俳句の作者である」という読者の認識が、この句を自由律にしているということか。定型の在不在は、読者が決定づけているのだろうか。「句」自体が囁いていることを根拠とするなら、「句」の声を聴きとれない者にとってはこの場合むしろ定型が存在するってことですか?

 詩の冊子という場のおかげでいっそう表面化するこの問題は、短歌定型の、ひいては短歌の喉元に迫るものだと思う。

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 短歌定型を取り扱う本に「関西弁について」というテーマを選んで設定しているあたり、賢くて鋭い人だなぁと思う。一見それまでとはやや変わった角度から入っているようだけど、ここで実は短歌定型に関して深刻な指摘がなされている。

これまで僕が七回に及ぶ時評で言及してきたのは、ほとんどが「口語短歌」と呼ばれるものだ。その偏りは率直に認めなければいけないとして、僕は以前から「口語」と言うときに、無意識に標準語のようなものが想定されることが気になっていた。

それはある種のヒエラルキーを覆い隠してはいないだろうか。あるいは永井祐や宇都宮敦、岡野大嗣といった作者の作品から、都会という「場所」性を剥奪していないだろうか。

「関西弁について」

 短歌定型はそのうちに中心―周辺を形成する権力構造をはらんでいる(たぶんこれはこの本の裏テーマだと思う)。それはさまざまな文脈に有効な指摘だが、たとえばこの回の土岐が取り上げている言語の文脈で言うと、定型における、リズムを構成する最小単位としての一拍(ビート)と発声単位としての一拍(モーラ)に対する当然のような同一視は、この規範に合格する言語と合格しない言語との振り分けをもたらす。加えて人物の描写にほとんどスペースを割けないことが、主体の人物像に対する「普遍性」を読者に期待させる。こうして「標準語(のようなもの)」以外の関西弁やその他の日本語は(作者を主体を同一視させるなどの何らかの創意工夫を仕込まない限り)想定されなくなる。音と意味が手を組んで権力構造を造成する機関、それが定型だと言ってもいいかもしれない。土岐はそこまでは言っていないけれど、似たような着眼があるようにわたしは思う。

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 それにしても、サーキュレーターズ/circulatorsとは何のことだろう。

 circulateとは循環する/させること、ぐるぐると回る/回すことを指す語で、-orは動詞の行為者にあたる語を形成する接尾辞だから、”circulator”は「循環させるもの」を指すことになる。「循環させるもの」……。そのように言われれば、土岐自身もこの本の中で参照している寺山修司の有名な短歌定型批判を想起せずにはいられない。

短歌は、七七っていうあの反復のなかで完全に円環的に閉じられるようなところがある。同じことを二回くり返すときに、必ず二度目は複製化されている。……(中略)……俳句は刺激的な文芸様式だと思うけど、短歌ってのは回帰的な自己肯定性が鼻についてくる。

『ダイアローグⅡ』柄谷行人、第三文明社、1990年

 これに基づけば、歌を円環させているもの・ぐるぐる回しているものとはつまり、短歌定型のことだ。円環構造。寺山が批判の文脈で使ったこの名高い表現を、あえて「短歌定型」を論ずる本の表題に持ってきたということか。

 だとすると、複数形の-sが気になる。だって定型とは読んで字のごとく「定まった」型なのであって、ザ・サーキュレーター/the circulatorとでも表現すべき一律性を特徴とするはずだ(「ザ・サーキュレーター」って、昭和時代の人気バンドみたいでかわいいですね)。不特定複数のcirculatorsとはどういうつもりだろう。

 土岐がこの本で引用しているたくさんの歌たちはいずれも、短歌定型との格闘としてここに記録されている。歌の作者が定型に抱いていた感情が愛であれ憎しみであれ無であれ、成果物を短歌と定義する以上、詠むことはどうがんばったって定型との取っ組み合いのような様相を呈する。この本に引用される歌たちの、それぞれに異なる定型へのアプローチ。土岐はこの、短歌のプレイヤーたちが試みてきた定型へのアプローチに定型を相対化し得る複数性を見出しているのかもしれない。

 複数形の-sを付することで、寺山が指摘した短歌定型の回帰性に挑もうとしている、のだとしたら、思考法がいけてんなと思う。

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「おもしろ外国人枠に入ることですよ、」

と、むかしプラハに留学していたとき、同じく留学していた日本人が、海外でうまくやっていくコツを教えてくれたことがある。この本を読んでいてそのことをふと思い出した。

 詩と短歌のそんなに遠くないはずの距離感を、異国に住むことになぞらえてまで強調するつもりは毛頭ない。ただ、書き手としての態度選択は緊張を伴ったんじゃないかと想像されるところ、『サーキュレーターズ 短歌時評』の取った態度はちょっとかっこよかったという話がしたかった。「ふつうに短歌の話をする」というのがそれだ。

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