管理人の本棚を預かっていただくことになった伊舎堂仁さん(@hito_genom)に、その本棚から、何かを読んで書いてもらう企画です。第2回は小島ゆかり『希望』。
こじまゆかり、と打ち込んでみてまず、このひと工藤吉生とイニシャル同じなんだな、の1(ワン)ウケがある。小島ゆかりを初めて知ったのも工藤さんからだ。検索したら2013年、12月のツイート。歌のみでボコっと引用されていた。短歌でそんなところを言われるなんて気持ちがいいな、と思ったし、そんなところを言えたら嬉しいだろうなと思った。その後、短歌に求めるものの一つになっていく。
ファミコンソフトにマリオ眠らせチカチカとマリオの屋根に雪ふり積む
以降、「『マリオ』の人かー」をその都度思いつつ、そうでなくても〈小島ゆかり〉という涼しい字面は記憶するのにとてもやさしい――〈北山あさひ〉くらい涼しいと思う――し、総合誌・歌集・アンソロジーとそこまでがつがつ読んでいかなくとも
そんなにいい子でなくていいからそのままでいいからおまへのままがいいから
(歌集『獅子座流星群』より)
や、
秋晴れに子を負ふのみのみづからをふと笑ふそして心底わらふ
(歌集『月光公園』より)
という歌がある人なんだ、とこっちの知識に加わってくるのが小島さんだと思う。言葉の正しい意味で、こういう人のことを主要人物と言うのじゃないか。【秋晴れにー】のような歌を持つ一方で、いつかにボコっと詠んでいた「マリオ」みたいな歌でビギナーも引き込む。駆け足で書くとそういう印象を持っている。「大学短歌バトル2016」エキシビジョンでの【母となり祖母なりあそぶ春の日のむすんでひらいてもうすぐひぐれ】もすごかったな。うん。
小島ゆかり 第五歌集『希望』は、どういう一冊だろう。開くとすぐに
月ひと夜ふた夜満ちつつ厨房にむりッむりッとたまねぎ芽吹く
という有名な歌と目が合ったりする。わりと冒頭に「古書店」の一連が置かれているから、というのもあるだろうけど、ひっそりとしたところから始まる歌集だという印象を受ける。ひとりきりでいる静けさ。
がキープ、する「見る」への緊張感。
硝子戸を砂の風うつ午すぎの古書店は鰐の孵るしづけさ
浄水場にゆふべのあをき雨霧たちて煙草を点す人小さく見ゆ
この『古書店』と『鰐』、「雨霧」と書いて『ガス』と読ませるあんばいなんかは、今回この歌集を指定してきた管理人の諸作を連想させるようなところがある。よって今後、正しく飛び火・継承されていくのだろうなぁと思う。短歌って『古書店』と『鰐』と『雨霧』のことだと思う
生産ラインに余裕があるため、同じ『古書店』の窓枠を流用し作ったシルバニアハウスや、「煙草を点す小さき人」のレゴや、変わり種アイテムとしてのマリオに喜んでもいいけど、あくまで工場の主力商品は『古書店』と『鰐』と『雨霧』であるので、 それを忘れてはいけない
小走りに草野にあそぶ朝鳥が露を蹴るときつゆあふれたり
上手いよなぁ、と思う人にはたいてい鳥の上手い歌がある。「鳥」と「足」、で
しらさぎが春の泥から脚を抜くしずかな力に別れゆきたり/吉川宏志
を思い出してしまうことからは誰も逃れられない。小島ゆかりを思うとき、吉川さんが思い出されてくる脳の動きってたしかにあると思う。その動きに従い、二人の名前を並べた『短歌の友人』の穂村さんへはその度わかる、と思う。わかるわかる、と思うこともある
一閃光つばめ過ぎたり埋立地舞浜は路地も路地裏もなき
舞浜ってたしかにそういう、ゼロか1かみたいなところがあると思う。ここでも引き続き、「ひとりきり」と「静けさ」が切り結ぶことでの緊張感はキープされている。
夕飯を食べつつ叱ることわびし子はじやがいもを突き崩しをり
お子さんがよく叱られている歌集だと思う。
あふむけに眠る子の口開きをればわれさかしまにそこへ吸はるる
叱られていない場合には、ご本人にとってはあまりよそ様に言わないでほしそう…な状態のことが歌われているように思う。
思春期はものおもふ春 靴下の丈を上げたり下げたりしをり
歌集で最初に出てくる、(たぶん)我が子を詠んだ歌はこれだ。『希望』を読んでいると僕は、中学のとき、電話の子機を自室に移動して友達からの着信を待っていたら、後ほど部屋に遊びにきた彼らに「来てくれてよかったよー」「朝から子機持って引きこもってしまってがいるさ」と笑って言っていた、ときの母を思い出す。
女子が修学旅行の荷に入れし茗荷のやうなリンスの小瓶
まいったな、と思っている。
キレるといふ感覚わかる光化学スモッグ出でて山見えぬ日は
…『希望』には、昔自分がたまらない思いでやり過ごしてきた「母」が偏在している。
さうぢやない 心に叫び中年の体重をかけて子の頰打てり
??????「そのままでいい」のじゃないのかよ??????
●
わたしの産んだ娘なんだから。昔よく、母はわたしに言った。だから愛している、だけじゃなく、わたしたちのあいだに気兼ねや遠慮はいらないということだ。つまりそれは、父以外ほとんどすべての人との約束が、わたしとの約束より優先されることを意味している。
長島有里枝『テント日記』(「すばる」2017.04 特集『あの人の日記』より)
(以下、引用部すべて『テント日記』)
母はまた、母親の愛情は他のどんな愛よりもずっと深くて強いと信じていて、すべての問題をそれで乗り切ろうとする。わたしはそうは思わない。幼い子供は、重力の法則や惑星の公転ぐらい自明のこととして母親を愛するのに対し、子供を愛せない母親はたくさんいる。こういうことを言うと、母はわたしを茶化す。
その人のお母さんが出てくる文章ってどうしてこんなにおもしろいんだろう、と思いかけて、「おもしろい」はすこし違うかも、となる。
ボロ雑巾みたいな母娘の関係が変わるかもしれない。してもしょうがない期待を込めて、わたしはテントの制作を思いついた。アーチストのわたしが洋裁の技術を持つ母に、共同制作を依頼する。この作業のあいだ、わたしたちは母娘であるまえに、職業上のパートナーとなる。仕事をドタキャンして歯医者の予約を入れることは、世間的に許されない。母はわたしを後回しにはできないはずだ。
そう思った矢先の、歯医者事件だった。
読んでるあいだ快いわけではなく、むしろその逆だ。なのにたいがいの〈その人のお母さん〉が出てくる文章って読み終えれてしまうし、そういう人は多いかもしれない。それはなぜなんだろう。
母への鬱屈した感情で身体が、雨水を溜めたドラム缶みたいに感じる。十代の初めから、少しずつ溜まった水だ。水かさは減ることもあるが、ちょっとしたことで溢れもする。いつかはこの水に溺れて、死ぬのかもしれないとも思う。母はちょくちょく、この水に石ころを投げ込む。(…)昨日貰った歯医者のメールはごくごく小さな石だが、ちゃぽん、という音を聞くと反射的にむっとしてしまう。痛んでない歯の治療って、緊急性ないじゃん。
もし母が、電話に出た受付の女性が提案した日には幸い娘との約束しか入っていない、と考える人じゃなければ、〈きっとよっぽどのことだよね、夜中に突然歯が痛み出したとか〉とわたしは思って、母にこうメールするだろう。
「大丈夫? 無理しないでいいからね。お大事に」
でも、母はそういう人じゃない。
水…でいうと僕の場合はですね、
立って撮るレントゲンの胸に当てる板あるじゃないですか、
あれがぎゅうぎゅう壁まで押してきて、挟まれながら肺から、タバコを吸ってる人くらい黒いのが垂れてきて床を汚しちゃう「水」のイメージがあるんですよね、
タバコ吸ってるわけじゃないんですけど、
みたいにすぐ〈作者に話しかける〉ように思ってしまってから、これってあの「叫びの交換」(©︎近藤芳美)なんじゃないか、といういうことに思い至る。「叫びの交換」優良コンテンツとしての【その人のお母さんが出てくる話】。
となると話は、『テント日記』における
なぜか、母のご飯は結構な頻度で不味い。味付けは目分量で、味見はしないと言っていたから当然だろうか。一緒に住んでいた頃、わたしの味噌汁にはよく出汁袋が入っていた。サラダにトマトのヘタだけ入っていたり、切干大根の煮物に輪ゴムが入っていたりもした。家族は呆れて文句を言うのだが、母の失敗談はいつしか逸話となって殿堂入りし、そのときはまだ家族じゃなかったメンバーたちにまで語り継がれる。それでも母は、気をつけたり、改善したりすることなく、懲りずに同じやりかたで、家族にご飯を作り続けてきた。
の「嫌」は受け入れられて、『希望』の
さうぢやない 心に叫び中年の体重をかけて子の頰打てり
の「嫌」はどうして耐えられないのだろう、という疑問に移る。
これを撮っているカメラの位置の違い、は理由になるかもしれない。
明らかに「かつて食事を作ってもらっていた」側や「頬を打たれる」側に感情を移入させて二つの出来事を読んでいる僕には、「ひどい目にあった」側として「ひどい」を話しウケる、ことには納得がいっても、「ひどい目に合わせた」側がその話で更にウケを取る、ことには二重の搾取を感じてしまう…ということはひとまず言えるだろう。『テント日記』においては、そこから更に「逸話」をこの書き物に引き戻してくる、というウケの獲り返し、をしていることに快感がある。
…その一方でここには、それが散文か短歌か、の違いが決定的なものとしてあらわれていると思う。散文が出来事の垂れ流しで、好きなところをこっちで探し反応していけるムービーだとすれば短歌は、特に歌集は、その人のこう見せたい、を切り撮って配置したアルバム、という様相を得てしまいがちだ。シャッター切られるときだけいい人にならないでよ、を思うと同時に、一冊から省かれたもののその省略の手つき、まで信じられなくなる。
さうぢやない 心に叫び中年の体重をかけて子の頰打てり
掲出歌は、歌集中では「太陽の椅子」という9首からなる一連の二首目に置かれている。以下、
全身で母を拒絶し雨の夜のガラスにしろき額当ててをり
一昼夜、無言ののちに顔上げて「ごめんなさい」と言へり一二歳
反抗期の子はぎしぎしと揺らぐ楡 千年のちもおまへを愛す
と続いたあと、数首【反抗期】の詠み込まれた歌を置いて
卒業記念制作展に反抗期の子が作りたる〈太陽の椅子〉
で終わる。ここの【太陽】が、連作の一首目である
雨が降るやうにしぜんに泣けばいいおまへの顔が傘で見えない
の【雨】に対応していることで、「反抗期」というぐずつきだした天気が→この一連に流れていた時間で良きものへ変わっていった、という読みを受け取れるようになっているあたり上手い…と思う。
途中、「子」の出てこない
飛ぶ鳥は後方を見ず後方にはがねのごとき雲はとどまる
の歌においても――また「鳥」だ――「鳥」と【雲】を、子供と自分自身、に対応させて読めるようにもなっていて、ほとんど無駄のない佳品という印象の9首だ…が、やっぱり自分はこの
反抗期の子はぎしぎしと揺らぐ楡 千年のちもおまへを愛す
というふうな【子の頰打】ったその後、の収め方を受け入れることができない。別に僕なんかに納得されなくたってもかまわないのかもしれない。でも千年愛せた、ら、言うべきだと思う。
さらに加えると、
一昼夜、無言ののちに顔上げて「ごめんなさい」と言へり一二歳
卒業記念制作展に反抗期の子が作りたる〈太陽の椅子〉
この二首における、【子】からの【「ごめんなさい」】の肉声や、〈太陽の椅子〉という名付け、の言葉をほとんど奪い取ってくるような詠み口にはいったいどういうことだろう、となる。
〈太陽の椅子〉という題は「反抗期の子」のクリエィティブである以上、ネーミングとしての聖域にある「言葉」のはずなのに、こういった持って来られかたをされているし、歌から読者に向けたデータのような【十二歳】の提示のされ方には、「みなさんにも「ごめんなさい」しなさい」的に作者に連れてこられたひとりの児童が目の前にいるようで、まったく【さうぢやない】からの嫌さが解消されない。
もちろん、短歌は僕を上機嫌にするためにそこに在るわけではない――うえで、この〈産んだ子を食べる〉っぽさはとてもグロテスクに感じられる、というのは「評」だろうか。言い重ねると、【さうぢやない】が〈産んだ子を食べる〉ようなクリエイトであるとすれば、【「ごめんなさい」】に〈太陽の椅子〉の歌はさらに〈その子の産んだ子も食べる〉ような営みへ手が触れてしまっている、と思う。
歌評と主体の人物評は分けて行われるべき(なの、か?)であるとして、【さうぢやない】一首における力点である「中年の体重をかけて」の【中年】の嫌さを評しようとした場合、この嫌(いや)は、【子の頬】を打ち、さらに〈詠もう〉と思い、なんだったらそんな〈われ〉を【中年】と自称することでもう1ウケを足そうとしているように感じる作者・その人の「この時点」までを言う、ことで「評した」ことになる、と僕は思う。ゆえに僕は、僕の一首〜人物評と共に掲出歌の一首評からは締め出されることになるだろう。
(余談だが、似たような心の動きは、すこし前から小池光の
佐野朋子のばかころしたろと思ひつつ教室へ行きしが佐野朋子をらず
(歌集『日々の思い出』より)
における結句【教室へ行きしが佐野朋子をらず】のスカしオチの良さ、を前に不問にされている気がする「ばかころしたろ」を思う、際にも起こるようになっている。
一方で石井僚一の
かつて父親を殴った水筒で墓前の花に水を与える
(歌集『死ぬほど好きだから死なねーよ』より)
を前にはそれが起こらないことを思うとき、ここには色々と考えるべきものがある、と思う。
つまり、
●男の人が(たぶん)女の人へ暴力を加えようと思い立つ→許せない
と
●親が子どもを殴る→許せない
の間へ
●子ども(男)が親(男)を殴る→「許せない」とは思えない
を置いたときの僕の「誰が誰を殴ってもよくない」にはなってなさ、を自分で省みる必要が出てくる、みたいなこともある)
【中年の体重をかけて】や【教室へ行きしが佐野朋子をらず】、【かつて父親を〜水を与える】を評しながら、「頬を打つなよ」「ころそうと思うなよ」「殴ったのかよ」までに達してなにかを言う、ことの〈それは読者へは許されてなさ〉はなんなのだろう、と思う。繰り返すが、それをした途端に部屋から「締め出される」。
だとしたら〈部屋〉では今なにが評されているのだろうか??
…うまくまとまらない。話を戻すと、
たぶん僕の執着は、【中年】や、「雨」と「太陽」のような連作的工夫を用いて短歌をよくしようとし、結果よくなっている、その作為を思うことにある。子機を持ち、部屋に「いた」ことを「朝から引きこもっていた」と変換する段において、母への許せなさは極まった。言い方。つまりレトリック。こう言う、ことで作者が養分に〈できた〉もののこと。〈作者〉ってつまり、実作者だ。僕だって「書く」。これを「書いている」。「書く」ことで奪い取ってくるもの。奪い取ってくる になっている「書く」のこと…
脚太く厨に立ちて真夜中に米と卵を確かめてをり
矢印が子どもに向かわない、場合においての小島ゆかりの「書く」は再び静けさを取り戻す。
落としたるフォークぎいんとひびくとき誰か鋭くわれを憎まん
うえで、緊張感はひきつづき保たれている。それぞれでの酸素濃度の揃いっぷりが、この人にはこう見えているらしい世界は「ある」、のだな、ということを信じさせてくる
誰かの言葉だという短文を、母はキッチンのいたるところに貼った。半紙に毛筆で書かれた箴言のようなものが、お札のように家を内側から包んでいた。どんな言葉だったのかは思い出せない。覚えているのは、それを読まないよう、なるべく視線を上げないように歩いたときに見た、キッチンの床の木目だけだった。
「ひとり」の静けさが、その緊張感が、子供へ向かうでもなく、子供が出てこないわけでもない。しかし子供のいない、なのに子供の歌――という厳しい達成が行われている一連には、連作『修学旅行』があると思う。
若夏のあらし過ぎたり髪束ね修学旅行へ子は出でゆけり
女子が修学旅行の荷に入れし茗荷のやうなリンスの小瓶
石灰の粉吹き立ちし校庭に未来はありき はるかなる雲
シンクタンク磨けば銀にくもりたるわが顔が夜の底より覗く
朝雲が夜雲をふかく抱くころ混沌としてわれはうたびと
わずか5首による一連なんだけど、「修学旅行」という題を置かれながら詠まれているのは、子を見送ったあとの自分である…ことで生まれる反作用のような静けさは得難いものに感じた。すごい。(発明だと思う)
【石灰の粉吹き立ちし校庭に未来はありき はるかなる雲】の「未来」は、【考へてもわからぬことを考へる子供のために夏時間あり】の「夏時間」と同種の、あくまで上からあてがうような〈規定する〉言葉であり、不用意に素敵であり、よって【千年のちもおまへを愛す】につながっていくような嫌な何か…のはずなんだけど、連作「修学旅行」においてはそれは、小島ゆかりの「ひとり」の静けさのもとに「嫌」を免れている。そのことを不思議に思う。
さすがに母は、父の悪口を言わなかった。ちょっとは反省してくれているんだろうか。夕飯を作るため、少し早めに帰宅。母は膝が痛いのに、いつも必ず団地の三階から下まで降りてくる。日が暮れると、さすがに十二月らしい寒さで、母はダウンベストをセーターとエプロンの上から羽織っている。
両親の駐車場に停めた車に乗り込んで点灯したヘッドライトが、少し離れた車の正面に立つ母を照らす。歩道の縁石の向こうにいる母を轢いてしまわないよう、左に思い切りハンドルを切ってゆっくりと車を出す。ライトは母の胸から下をなめ、背後の植え込みの金木犀とサツキの低木を順に照らす。母の姿が滑るように運転席の窓の外に移動したところで、窓を開けてありがとう、と声をかける。
気をつけてね、と言う母には答えず、フロントガラスの方を向いてアクセルを踏み込む。バックミラーを覗くと、母はいつの間にか歩道の真ん中に出て、両手が頭の上で交差するほど大きく手を振っている。正面とバックミラーを、わたしは交互に眺める。小さくなっていく母は、手を振り続けている。わたしの車が団地の角を曲がって見えなくなってしまうまで、ずっとそうしている。
「出来事」と「わたし」との間に置かれた、短歌や短文であったりする「言葉」は、その無数の読み手へ「叫びの交換」を呼び起こすと同時に、書き手と「出来事」との間に入りこんで救済としての〈距離〉をとってもくれるのではないか……と考えてみる。
そんなことなぜわからぬと中年のわれ老年の母に叱らる
そうすると、『希望』と『テント日記』における、僕にはハイライトのように見える箇所が、物理的な〈距離〉が「母とわたし」の間へおかれる場面であることは象徴的に思えてくる。そして、悲しい到着点だと思う。その人と離れていることでしか、なにかの「ハイライト」ではいられない「わたし」たち…
こつそりと被りて愉し丈少しわれを越えたる娘の帽子
思えば、「佐野朋子」も「水筒で殴った父親」も、その人が今「いない」ことであぁなれている歌だった。
…じゃあ〈一緒にいるとき〉ってなんなんだろう。
ずっと、自分を守るために母を避けていた。もがきながら撮った写真を見た人は、わたしたちをいい家族だと思う。でも、ほんとうに彼らの思うような家族だったら、たぶんカメラを向けていなかった。自分の好きな場所に行き、好きな人や花や風景を、美しく記録するためにシャッターを切っていた。
さしあたって今は、「わたしたち」には〈距離〉が要ることの哀しさよりは、叫びの交換ツールとしての「言葉」、それぞれが持つ長所のほうに興味が強い。加えて、「好きな人や花や風景」にシャッターを切ったとして、こんなふうに〈もがき〉も映ってしまう短歌のことをおもしろい、と思う。
食べるとき皆うつむけるテーブルに水中花ひらきゐる羞しさ