うたポル歌会記―左沢森、丸山るい、温(2024年8月18日)

歌会記

参加者

左沢森(あてらざわしん)
@panicattheJUSCO 山形県出身。ブンゲイファイトクラブ3優勝。第5回笹井宏之賞大賞受賞。

丸山るい(まるやまるい)
@in_ruins  東京都在住。「短歌人」所属。第22回髙瀬賞受賞。

温(あたむ)<司会・記>
@mizunomi777 「うたとポルスカ」運営、「イルカーン」メンバー。

詠草

静脈のうっすら透ける手のひらは地図ときどきは見知らぬ町の
(丸山るい)

夜が歩いて私がそれについてくる 二番の歌詞のころに追いつく
(左沢森)

まつ毛にも寝ぐせってあるんだね おもしろいね rose hip
(温)

歌会記

 お集まりいただきありがとうございます。この歌会記では、僕が個人的に好きな歌人をお呼びして歌会をしています。今回は、丸山るいさん、左沢森さんのお二人に来ていただきました。本日はよろしくお願いいたします。

丸山 よろしくお願いします。

左沢 よろしくお願いします。

 それではさっそく、一首目から始めていきましょう。

※歌会中に引用された歌については、末尾に出典を記載しています。

静脈のうっすら透ける手のひらは地図ときどきは見知らぬ町の

左沢 〈静脈のうっすら透ける手のひらは地図ときどきは見知らぬ町の〉〈地図〉が三句目から四句目にはみだしていますが、全体としては定型に沿っていて、すっとした佇まいの歌だというのが第一印象でした。意味については「手のひらにうっすらと静脈が青く透けていて、それが地図のように見えた」ということですが、こうして実際に自分の手のひらを見ると、たしかに青い血管が透けている。でももっと手前に、手相というか、手のしわのほうがわかりやすく見えているんですよね。静脈は、よく見ればうっすらと後ろに透けている状態で、二重写しみたいになっていることに気づかされました。上に手相の町があって、下に静脈の町があって、たとえば古地図を現代の地図と重ねて見ているような感覚に近いんですかね。それで、歌のなかの引っ掛かりについて考えると、やっぱり〈ときどきは見知らぬ町の〉という下句の展開がちょっとぎょっとするというか、おかしなことを言っているところだと思って。〈ときどきは見知らぬ〉って、じゃあいつもは見知った町なんですか、というツッコミのポイントでもある。そこの変な感覚がおもしろかったです。

 ありがとうございます。まず手のひらを地図ないし町と見立てることのおもしろさがあり、次にそれを〈ときどきは見知らぬ〉と表しているおもしろさがある、ということですね。第一の点に関しては、古地図でもいいし、地上に手相の町があって地下には静脈の町があるというのもいいし、あとはグーグルマップとかだと地形タブと航空写真タブを切り替えられたりして、いずれにせよ地図というものが多様な意味においてレイヤー性を持っていることが、この比喩に説得力を与えていそうです。そもそも歌のなかには手相のことは書いていないんですが、左沢さんがやっていたように自分の手を見てみると、やはり手相が先に来ますもんね。この、青いのがきっと静脈なんですよね?

左沢 おそらく。生物選択じゃないので自信はないんですが。

 同じくなんですが、でも実際青いですしね(笑)。いずれにしても、これがもし「動脈」だったなら生き生きした町と感じるはずですが、「静脈」であることによって、地図や見知らぬ町が静かにたたずんでいるイメージが付与されている気がします。

左沢 ありますもんね、「交通の大動脈」みたいな言い方。

 たしかに。地図と血管のメタファー自体はその言い方で既存なんですね。でも「交通の大動脈」とはいうけど「交通の大静脈」とは言わないな。

丸山 なんか元気ない感じしますね。

左沢 急に交通量が減った感じありますね。

 それで、もう一つのポイントである〈ときどきは見知らぬ町の〉ですが、ここで急に、「見立てが上手な歌」という次元の話ではなくなってくるというか。さっき、左沢さんの評を聞いていて思ったんですが、おそらく「ときどきは見知った街の」というような言い方がふつうの歩幅なんですよね。「手のひらが地図」という見立てを引き継いで、それを順当に発展させるなら。手のひらが地図みたいだなぁ、そういえばこのへんの混み入ってるところは中野のあのへんに似てるなぁ、みたいななぞらえ方は共感を呼べると思うんですけど、でもこの歌は一歩飛ばしで、〈ときどきは見知らぬ町の〉という下の句を選択している。そのことによって、グニャリと前提がゆがむというか、共感できていると思ったこの人に一瞬で置いて行かれた感覚があるんだと思います。左沢さんが最初に言及していた韻律の面でも、この下の句のドライブが効果的に出ていますよね。〈地図〉の2音だけが下の句にはみ出していて、そこからグニャリとなる。

左沢 こういうタイプのはみ出し方は個人的にすごく好きで、どうしても575/77で分かれてしまいそうなところを、ちょっと溢れてしまうというのがすごくいいです。歌のリズムと意味のリズムがちょっとずれる感じがあるというか。歌のリズムは上の句・下の句できれいに分かれているのに、意味の上では下の句にすこしはみ出ている。このズレがまた、静脈と手相のレイヤーのズレにも繋がっているなと。

 たしかに。ずれているんだけど、どちらにもそれぞれの整合性があるというのが、地図のレイヤー性との呼応として適切である感じがしますね。つまり、はみ出た2音の〈地図〉を三句目に含めて〈手のひらは地図〉をひと塊とする、意味に合わせたリズムで取ったとしても、韻律に定型性があって気持ちいいというのが。はみ出たのが3音だったらここまでの凄みは出ないと思います。

左沢 〈手のひらは地図ときどきは〉で5・2・5になっていますね。二句目の3・4と音の展開が異なるのも含めて、いいですね。

 ダイナミックになりますよね。字空けがないこともこのダイナミックさに寄与していて、字空けがあるバージョン、〈静脈のうっすら透ける手のひらは地図 ときどきは見知らぬ町の〉よりもなにか緊張感のようなものが高まっています。

左沢 そうですね。音の雰囲気も、ここで変わる感じがします。上句は、「うっすらすける」の「す」が続くところとか、「じょうみゃく」もそうかもしれないけど、全体的にやわらかい、かすかな音で運ばれてきているんですけど、「ときどきは」からいきなり強くなる感じがしました。

 あー、子音のストレスコントロールみたいな。たしかにそうですね。上の句は繊細に聞こえるのに、「ときどきは」から強めの音が入ってきているというのはおっしゃる通りで、音においても意味においてもドライブ感がここにかかっていることが読み取れそうです。あと指摘しておきたいのは、「町」が「街」ではなくて「町」なところ。「街」にすると、なにか情緒が出るところがあると思います。伊舎堂仁さんの歌に〈町を街へと書きかえてその人がその文章を詩にした理由〉という歌がありますが、この歌においても「町」にすることで情緒をあえて排しているように感じました。

丸山 「街」のほうがポエジーの度合いが高いという判定になるんですね。

左沢 なる気がしますね。そのうえで「街」ではなく「町」を使いたくなるシーンはけっこうあるように思います。

 「町」は「町」でもちろん味があるんですけど、やっぱりいわゆる情緒があるのは「街」という印象ですね。もともとこの箇所は見ようと思えば操作が見える箇所であって、そこに「街」と書かれると「作者ががんばって素敵な世界を作ろうとしているのかしら」という疑念が差し挟まれてしまうので、やはりここは「町」のほうがすっきりしていていい気がします。丸山さん、ここまで聞いてみてどうですか?

丸山 すごい、おもしろいです。実際に手のひらを見ながら、静脈のレイヤー以外にも手相のレイヤーがあると見つけながら話してくださったところとか、興味深く聞いていました。あと、これは自分の手のひらだということで読んでくれているのかなと思って、そこもおもしろかったです。

左沢 たしかに、他の人の手のひらと読んでもおかしくなかったと思うんですけど、なぜかそうは読まなかったな。

 他の人だと、その人の手のひらをけっこう長い時間じっくりと眺めていることになり、それはその人と相手との関係性が読みに含まれてきそうで、甘やかな歌にも思えてきますが、なんでしょうね。そんな口調じゃないからかな。この歌が静脈を見たとき、恍惚としているよりは「人体ってよく見るとわりとキモいな……」感があるように受け取っているんですが、それは他者を客体とした見る/見られるの状況よりは、自分の体をじっくり遠慮なく見たからこそ出てくる感想のように思ったということかもしれません。

左沢 一人で完結している感じがありますね。たとえば自分の静脈を「見知った町」と呼んで、他人の静脈を「見知らぬ町」と呼んでいるのであれば〈ときどきは見知らぬ町の〉もそこまでおかしなことを言っているわけではないのですが。この歌に関しては、観察者として自分の体を眺めて、なにかを発見したということに輝きがある感じがしました。個人的に、僕がそういう歌に弱いということもあるかもしれませんが(笑)。それと、作者ありきの印象ではありますが、丸山さんの歌には半透明なものがよく出てくるイメージがあります。〈とうめいな犬を視界にはなっては見ていた冬の野のフリスビー〉とか。このあいだの文學界に載っていた〈顔のうつるところに立てば顔の奥を線路がずっとずっと続いた〉とか。

 たしかにそういう印象があります。僕は「見知らぬ町」を歩くときの寄る辺なさというか、ぼんやりとした不安の感覚みたいなところにも丸山さんらしさを感じました。さて、それではそろそろ次の歌に行こうと思います。

夜が歩いて私がそれについてくる 二番の歌詞のころに追いつく

 〈夜が歩いて私がそれについてくる 二番の歌詞のころに追いつく〉。客観的な景としては、私が夜、外を歩いているということに尽きるのだと思います。この歌が視線を向けているのはむしろ私のなかで起こっていることで、曲をイヤホンで聴きながら歩いているときに、なにかがしっくりきていない感じというか、ずれているような感覚がぬぐえなくて、自分の意志で歩いているというよりも、夜というものが私の体を歩かせていて、私の心はそこにあとから引っ張られるようについてきているみたいだ……という表現だと取りました。不可思議で、耳なじみのない言い方が選択されているんですが、同時になぜかすごくわかる気もする。夜、それなりに長い道のりを歩いていると、体が歩行している事実が意識から消えてしまうようなことがあって。暗いなかで昼よりも景色が変わりづらいから歩行の実感が湧きづらいのかもしれないし、いわゆる離人感みたいなものなのかもしれません。なんにせよこの上句に、予想以上に強い共感を引きずり出されました。さらにおもしろいのはそのあと、下句で〈二番の歌詞のころに追いつく〉と展開すること。短歌のなかで離人感が詠まれたあと、一首のうちにそれが解消されたのって初めてなんじゃないかな(笑)。それまでぼーっと考えごととかしながら歩いているところに、急に二番の歌詞がフッと聞こえてきて意識を取り戻したような、そんな感じがしました。丸山さんはどう読みましたか?

丸山 「離人感」など、なるほどと思って聞いていました。歩いているときって視界に前方の景色を収めながら歩いているので、目の前に景色としての夜があり、そのあとを自分の体が歩いてゆくから、そういう位置関係なのかなとも読めます。〈夜が歩いて私がそれについてくる〉のところ、「ついていく」じゃなくて「ついてくる」なのが、意識が私ではなくて夜のほうにあるという感覚が描かれていて、なにか体感としてわかるところがあるな、と思いました。〈二番の歌詞のころに追いつく〉に関しては私も音楽を聴いているんだと思って、歩いているうちに自分の意識と体がだんだんなじんで重なっていくというイメージです。先ほどの歌にもレイヤーの話が出てきましたが、この歌も、夜、私、音楽、歌詞という四つのレイヤーがあって、これが少しずつ重なっていくような印象を持ちました。

 ありがとうございます。視界としての「夜」が先を進んでいて、私の体がそのあとをついていくというのはかなり納得しました。僕は上の句を抽象的にとらえていたんですが、丸山さんの読みだと実際に前後関係がありますね。それと、「私」が主語なのに「ついてゆく」ではなく「ついてくる」と他人事のように言っているのが、私の意識が体としての私よりも「夜」のほうに宿っている感覚なのでは、というのもとてもおもしろいです。夜は昼よりも自他の境界がすこし薄まって、外部であるはずの夜そのものが私を歩かせていることに、なにか納得感があります。なんかこう、オートモードで歩いているというか、歩くときに歩いているという認識を脳が省略しているタイミングがありますよね。

丸山 たしかに、オートモードの感じすごいわかります。夜、音楽を聴きながらオートモードでぼんやり歩けるってことは、知らない道じゃないのかな。帰り道とか。よく知っている、安全な道を歩いているということだと思うんですけど。

 知っている道で、二番の歌詞に行くくらいには長い道なのかもしれないですね。〈ころ〉って言ってるのが、なんか長いスパンの歩行を思わせるのかな。オートモードで歩いていて、二番の歌詞のところでハッとする。

丸山 〈二番の歌詞のころに追いつく〉のところ、二番の歌詞を聞いているのは自分の聴覚じゃないですか。夜が先行して、体があとから着いていくというとき、意識はどっちに属しているのかな。

 どっちでしょうね……その問題とは違う疑問を挙げてしまうんですが、体がだんだんと追いついていったのか、それとも二番の歌詞のころになにかきっかけがあってハッと追いついたのか、これもまたどちらなんでしょうか。それが、意識がどちらに属しているかということに関係している気がします。

丸山 二番の歌詞に至るまで音楽や歌詞をちゃんと聞いていたのか、ちゃんと聞いていなくてフッと気が付いたときたまたま歌詞が耳に入ってきたのか、っていう。そうですね、〈夜が歩いて私がそれについてくる〉には静かな、無音の印象があるので、聞こえていなかったような気もします。下の句で急に〈二番の歌詞〉が出てきて、「あ、音楽聞いてたんだ」みたいな。音楽自体もそこで追いついてきたような印象があって。

 たしかに、そんな感じがします。最初、僕は二番の歌詞でハッとするフレーズが出てきたから意識が戻ったんじゃないかって、ここを強めに捉えていたんですけど、それだったら意識が「夜」にあるのではなく「曲」にあったと表現しそうだから、やはりそれまでは聞こえていなかったというほうが自然ですね。

丸山 〈二番の歌詞のころ〉というのが、時間の経過をあらわすための提示なのかなと思います。歌詞の中身ではなくて、〈ころ〉の修飾として〈二番の歌詞〉があるという感じ。

 東京事変に『能動的三分間』という曲があって、ちょうど3分で曲が終わるのでカップラーメンを作れるよ、というテーマを含んでいるんですが、それを思い出しました。詩や曲をひとつの時間単位として用いるという発想はおもしろいですね。左沢さん、ここまで聞いてみてどうですか。

左沢 ありがとうございます。歌をつくる上で、自分ではきちんと言語化せずに処理していた部分を丁寧に噛み砕いていただけて嬉しかったです。〈二番の歌詞〉は、そこで抵抗は生まれるだろうなと思っていて、一首に電流を流したときに、抵抗が抵抗のまま終わってしまうか、うまくいってフィラメント的な感じで光ってくれるか、みたいなことは考えていましたね。

 素直な回路なら電流は難なく一周するけど、抵抗を作ることで光を作れるかもという。歌作のたとえとして、回路はわかりやすいですね。〈二番の歌詞〉の抵抗は、かなりおっしゃる通りだと思います。

丸山 〈二番の歌詞〉は、絶妙に現実的な印象を与えますね。同じように、〈夜が〉のあと〈私が〉と並列させているのもこの空気を作っている気がして。たとえば、〈夜が歩いて私はそれについていく〉というふうな言い方をすればもっと幻想的な語りになるんですが、この歌では〈夜が歩いて私がそれについてくる〉という言い方が選択されていて、これが幻想ではなく、現実のなかの夜を歩いていることを実感させるバランスになっている。

 〈夜が歩いて私はそれについていく〉だと、「そういうお話を作りました」という感じになりますね。

丸山 そうなんですよね。それだと擬人化された「夜」になっちゃうから、あくまで俯瞰した目線ではなく、主体目線の「私が」という語り口がこの歌にとっては大事なんだと思います。

 夜を擬人化しておいて夜がこの人の手を引いて進むと述べるのは、この人が作り出したお話だから、この人をおびやかすような予想外のことは起こらない。少なくとも、そのように安心できる余地を読者に与えてしまう。〈夜が歩いて私がそれについてくる〉という実体験としての語り口なら、読者を安心させずに済むということだと思いました。案の定、読者の予想外の語として〈二番の歌詞〉が出てくる。

丸山 〈それについてくる〉というのもねじれた言い方ですね。夜を指して〈それ〉と言うときには自分は夜ではない側にいるが、〈ついてくる〉と言うときにはついてこられる夜の側の体感だから。

 なるほど、たしかに言い方がすごく奇妙ですね。

丸山 ですよね、不思議な言い方。

 これが体感としてぴったり来るような感覚があるのは、つまり意識がどっちにあるかというと、狭間を揺れ動いているということなのかもしれないですね。意識が宿っているはずの夜を〈それ〉と外から指したり、一方自分の体も〈ついてくる〉と客体として描いたり……。おもしろいところですが、このあたりで次の歌に移ろうと思います。

まつ毛にも寝ぐせってあるんだね おもしろいね rose hip

丸山 〈まつ毛にも寝ぐせってあるんだね おもしろいね rose hip〉。まず、〈まつ毛にも寝ぐせってあるんだね〉という語り方がすごくチャーミングだなと思いました。そして、「まつ毛にも寝ぐせがある」という発見が新鮮で。たしかにまつ毛ってビューラーとかで癖をつけることができるから、たぶん寝ぐせもつくんだろうけど、まつ毛に寝ぐせって考えたことがなかったです。発話の印象から、一人の人が、自分以外の誰かのまつ毛に寝ぐせを見つけたんだと読んでいて、まつ毛の寝ぐせを見つけられるくらいだから、すごく近しい、物理的にも心理的にも近い距離にいる他者。かつ、寝ぐせってことはそれまで寝ていたんだと思うので、そこにも親密な距離感を感じます。リズムの面から見ても、最初の〈まつ毛にも〉は5音だけどそこからゆるやかに崩れていくところが、なにかまどろんでいるような感覚を受けました。〈rose hip〉は薔薇の実のことで、日常的に目にするものとしてはローズヒップティーがありますね。画像検索してみると、花が落ちたあとの萼がクルッととしていてまつ毛のようにも見えたり、薔薇そのものにもいばらの城で眠る「眠り姫」のイメージが眠りと関連していたりで、きれいな取り合わせだなと思いました。

 ありがとうございます。左沢さんはいかがですか。

左沢 〈rose hip〉は、ここに半角の空きがあるのがおもしろいなと思って。「ローズヒップ」でひとつの単語だと思っていたので、空くんだここ、って。この歌自体、ここまでに2箇所の字空けがあるんですが、終盤にかけて日本語から英語に移り変わるとともに、字空けのサイズや字幅がだんだん狭まっていくことの効果があるなと思います。進むにつれて時間が遅くなっていくような、「アキレスと亀」のように近づいていくけど永遠にたどり着かない漸近線のような、時間がどんどん細かく刻まれていくような印象がありました。この歌のなかに、何人いるんでしょうね。〈まつ毛にも寝ぐせってあるんだね〉〈おもしろいね〉で二人が対話している可能性もあるけど、ずっと一人の発話なのかな。寝ぐせをつけている人を見て、その人に向けて一人の人がずっとしゃべっているような。

丸山 私もそう読んでいました。むしろ寝ぐせをつけている人はまだ起きていなくて、寝てる人に向かってしゃべっているとか。

左沢 あ、相手はまだ寝てる可能性もあるのか。たしかに、相手がいなくても成立する発話という感じはしますね。

丸山 相手も寝ているし、この人も起きたばかりで、まだうつらうつらしているんじゃないかと思います。〈rose hip〉の半角スペースも含めて、歌のなかにぽつぽつと空きがあるのと、音がどんどん足りなくなっていくのが、まどろんでいる印象を視覚的にも与えてくる。〈まつ毛にも寝ぐせってあるんだね〉のあたりはまだ起きてるんだけど、また寝ちゃうみたいな。

 後半は目をつむりながら言ってる的な。

丸山 そうそう、もう夢のなかに入っていってる。〈rose hip〉はなんだったら寝言。

 寝言が〈rose hip〉な人、だいぶ素敵ですね(笑)。

丸山 お洒落ですね(笑)。美しいものを夢に見ているんだな。

左沢 〈rose hip〉が英語表記で、しかも小文字なのが大きいですよね。

丸山 カタカナの〈まつ毛にも寝ぐせってあるんだね おもしろいね ローズヒップ〉だったら異物感が強いんじゃないかと思うんですけど、英語だとこの世界のなかになじんでいる感じが、なぜするんだろう。

 一般的には、短歌のなかに英語が出てきたら異物感を生みそうですが、ここでは英語のほうがむしろなじむ感じがあるんですね。

左沢 そんな気がします。最後がもしカタカナだと、すごく強い印象を与えそうな。

 ”rose”、”hip”の一語一語が短くて、身近で、ちみっとしているからでしょうか。カタカナで「ローズヒップ」って書いたら「おもしろいね」と同じ長さになってしまいますし、同じ英語でも”SANCTUARY”とかだったら全然違いそう(笑)。〈まつ毛にも寝ぐせってあるんだね おもしろいね SANCTUARY〉は完全に、目がバキバキに覚めてそうですね。

左沢 わりとどの単語が来ても覚めそうですね。そういう重たい英単語を入れるテクニックが短歌にはあると思うんですけど、〈rose hip〉はそれとは違う英語の使い方だなと思います。なんか、穏やかになりますよね。

丸山 最後に英単語を置く作りだけど、この英単語が歌全体と調和していますよね。ローズヒップというものが丸いことも影響しているのかな。薔薇は棘があって強いけど、ローズヒップだとコロッとしたかわいいものだから。

 ローズヒップはかわいいですよね。

丸山 そう、かわいいんですよ。ハーブティーのやさしい印象もあって、〈あるんだね おもしろいね〉の語気が丸くなる感じと合ってるのかもしれない。字空けがたくさんあるのも空気が多い、羽毛布団の感じがして、ふかふかしたなかで優しい、幸せな気持ちで読み終えました。

 ありがとうございます。字空けはこれまで歌会でもよく話題に挙がって、作り手それぞれの個性が強く出やすいポイントなのかもしれないですね。それではこのへんで、3首目も終わりたいと思います。本日はありがとうございました。

左沢 ありがとうございました。

丸山 ありがとうございました。

(2024年8月18日、千歳烏山にて)

引用歌出典

町を街へと書きかえてその人がその文章を詩にした理由
/伊舎堂仁「炭酸七拍子」、『トントングラム』(書肆侃侃房)

とうめいな犬を視界にはなっては見ていた冬の野のフリスビー
/丸山るい「消息」、『奇遇』

顔のうつるところに立てば顔の奥を線路がずっとずっと続いた
/丸山るい「顔」、『文學界』二〇二四年九月号(文藝春秋)

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