【杉原一司一首評/ 三上春海】時計など持たないわれは辭典とか地圖とかを讀み樂しく過す

杉原一司歌集刊行記念

(執筆者:三上春海)

  時計など持たないわれは辭典とか地圖とかを讀み樂しく過す 杉原一司

 このひとにとって「辭典とか地圖とか」を読むことはほんとうに楽しそうだ、ともおもうし、同時に「でも、そんなことがほんとうに楽しいのだろうか」ともおもう、ふしぎな読み味の歌だとおもう。

「辭典とか地圖とか」の「とか」による羅列はおもいついたことを適当に挙げているだけみたいだし、結句の「樂しく過す」も「樂しく」と感情をそのまま書いていて、一首の表現はなんだかゆるい。現在の口語短歌とも遜色ないゆるさである。だがこのゆるさが「樂しく」という感情と相反せず、ほんとうにそうなのだな、と読者におもわせてくる。口語調のゆるい文体は一首にアンニュイな空気感を生んでいて、ほのぼのとしてかわいい、とすら感じてしまう。しかし同時にそのゆるさゆえに、どこかずれている、という感想もおぼえ、ほんとうにそうなのか、という不安もまたおぼえるのだ。

 時計も辞典も地図もいまではスマートフォンひとつで確認できるが、そんな現在からすると、楽しく過ごすために読むものが「辭典」や「地圖」というのはすこしふしぎだ。小説や雑誌のようなわかりやすい娯楽がなくとも、わたしはわたしの想像力だけで楽しむことができる、という宣言だろうか。詩歌をよくするひとにとっては、特に、共感しやすい思想かもしれない。対するものとしての「時計」は、想像力に対する、合理性とか社会性の象徴にみえる。

 それとも、小説も雑誌も時計も(戦争を経て)失われ、残ったものが「辭典」や「地圖」だけだったのかもしれない。この想像も(有力でないにしろ)不可能ではないだろう。だとしても、その状況を「樂しく過す」と言い切るのにはおどろく。

 どちらにしても、「辭典とか地圖とかを讀み樂しく過す」ことの、反常識性というか、反社会性、を表明しようとしている歌だと考える。「辭典」や「地圖」を一心不乱に読むなんて、こわい、変だ、という世間の常識に反して、のらりくらりと、自分にしたがってまっとうに生きることを宣言する。かっこういい。そうおもうと、先述からの表現の〈ゆるさ〉にも、反社会性、という批評的な含意からの〈あえてこそのゆるさ〉がおもわれてくる。

 ところでこの歌のふしぎな〈ゆるさ〉に、前川佐美雄の『植物祭』の、たとえば次のような歌を想像した。

  一生の散歩みちをカントは決きめてゐたわれは無茶苦茶夜晝よるひるかはる

  わが室にお客のやうにはいり來てきちんとをれば他人の氣がする

 杉原一司に前川佐美雄が師としてどの程度影響を与えたのかはわからないが、ここに、〈批評的なゆるさ〉の系譜を考えてみる。この師系関係には、塚本邦雄やそれ以後の歌人への影響という観点からも、今後ますます注目があつまりそうである。穂村弘や永井祐など、現在の〈男性〉の歌人には、ここでいう〈批評的なゆるさ〉に自覚的な歌人が散見される。たとえばその方法的なルーツのひとつに、この一首は見いだされてくるようにおもう。


◇三上春海(ミカミハルミ)
同人誌発行所「稀風社」。博士(農学)。
稀風社HP: https://kifusha.hatenablog.com

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