待つ宵に更けゆく鐘の聲聞けばあかぬわかれの鳥はものかは 小侍従
吐き出してしまへば楽になるやうな宵の大路が蟬声を吐く 山下翔『meal』
これを書いている今、わたしたちはながい〈待つ宵〉にいる。
小侍従の歌は歌人の二つ名の由来にもなった歌で、「会いたい人を待ち焦がれる夕暮れの鐘の音に比べれば、一夜をともに過ごした果ての分かれがたい明け方に聞く鳥のさえずりなんて!」くらいの意味なのだけれど、二つはそもそも対ではなく、連続した同じことを言っているのではないかと思う。
そう思わせたのが歌集『meal』だ。題名の通り、とにかく主人公がよく食べる。というより、食べるシーンばかりがあからさまに多く切り取られている。食事中だけでなく、その前後や、同じ卓を囲んだ誰彼の表情、湿度、声、さまざま。
掲出歌は珍しく「吐く」ほうの歌。上の句の時点では「吐く」の主語は自分と読めるのだが、異物を飲み込んだカエルが胃袋ごと吐き出すみたいに、吐く主体は「大路」へとねじれて反転する。「大路」は開かれた空間、どこかへ通じる路のはずなのに、みっしりと犇めく「蟬声」が耳を焦がす。あくまで仮定の「吐く」から入って、結句は終止形の「吐く」で終わる、否、終われない円環状の時間が、せつなく苦しい。
待つ宵と、それから後朝(男女ふたりの契りに限らずここでは大なり小なり愛や憎を伴う「飽かぬ別れ」全般を指すと思ってください)の関係は、食欲や、食事という経験に似ている。食べてまたお腹が減って。会ったから別れて、別れたから寂しくて、寂しいからまた会って、会えばうれしいから別れがたくて……。(今みたいに人と会って食事をともにする機会が稀有になってしまう以前から、思えばもともと人と人というのはそうなのだった。)単純で気が狂いそうな繰り返し。
『meal』はこの狂おしさをものすごい純度で歌に結実させた一冊だった。
さいごだから張り切つて食べたトンカツと思ひ出すのは嫌だな、ちがふ
もう何も言へなくなつてひたすらにご飯を詰める胸の奥から
お替りのごはんの量は「たくさん」と答へたりたくさんたくさん食べる
歌集をさいしょに読んで、その足で思わずとんかつ屋に走ってしまった。ので、連作「たくさん」から続けて3首引きました。大切な人との長いお別れが決定的になろうとしている場面。言葉が出てこないくらいに喉がぎゅっと締め付けられて苦しいのに、だからどうにか今を凌ごうとご飯をたくさん食べる。こう並ぶと「お替り」の一語すら、今まで繰り返していたようにはもうきみとの時間を「お替り」できなくなる、ことが思い知らされるみたいでかなしい。それに、やけくそではなくどこかで冷静に計算して自分を宥めているのが、特に1首目から窺えて、せつないなと思う。この食卓の光景は記憶に鮮烈に刻まれてのちのちも思い出すだろう、と予感しているのがつらい。さらに言うと、つらい予感に浸されていた感覚を、歌に結晶化することで残してしまうのがもっとつらい。
紅しやうが溜まるそこひをかき混ぜてラーメンは汁飲み干さむとす
まはるまはる葱の小口の輪をくぐるさいふうどんのつゆのみほせり
1首目は何を言っているわけでもないのに好きな歌。なんでもない場面で、けれど言われてみれば確かに丼の底のスープは具をかき混ぜてから飲み干すよな、なぜならそうしないと具だけ残っちゃうから、と深くうなずく。紅しょうがは残さないように、あるいは、未練がのちに私を苛みませんように。
でも、手が無意識にやっている振る舞いまでつぶさに歌に書き留めてしまう精密さは、ある食卓を思い返すときの画質をクリアにしすぎて、かえって飢えを(人恋しさを)加速させてしまうのではないか。心配になる。4句目の助詞が「の」ではなく「は」だから、余計にその一回きりの食事に焦点が絞られて光を帯びてしまう。集中にはこの手の助詞「は」がよく出てきて、なんども光景がまぶたに焼き付く感じを覚えた。
2首目は同じく飲み干す歌で、こちらは輪廻とまでいうと言い過ぎにしても、別れと再会の輪を象徴しているみたいに読める。
ただひとつ惜しみて置きし白桃のゆたけきを吾は食ひをはりけり 斎藤茂吉『白桃』
冬粥を煮てゐたりけりくれなゐの鮭のはららご添へて食はむと 『つきかげ』
短歌で「食べる」といえば、健啖を絵に描いたような茂吉を思い浮かべる。1首目は食べ終わった直後の充足感、2首目は「これから食べるぞ」の期待感が眼目。そこへさらに「惜しみて置きし」とか「煮てゐたりけり」とかで時間や食欲の相を重層的に重ねている。握力のつよい統辞は、そのまま一連の食行為を統御する主体の意思の確かさに通じる。先に山下の歌の「は」について述べたが、たとえばこれらの茂吉の歌は「白桃は食ひをはりけり」とかにはならない気がする。
一篇の映画をみたるここちして大水槽に餌やり了はる
深いところでつながりたくないといふ気持ち秋天に恥づかしくなるばかり
ひびかない鐘をなぐつて痛くなる素手のごとしよわれの若さは
正月にもどる家なきいくたりと興奮をしてすき焼き食べつ
三人くらゐは食べるだらうといふ判断にライス小来る三人で食ふ
明けがたにいちど目覚めてゐたことは言はないでおく まぶしい部屋だ
1首目はこの歌集に置かれると深読みしたくなる。水槽を見ていたはずの自分がいつしか群像劇の中の一尾になっているような感覚。流れまた犇めく魚たちへはらはらと降ってくる餌のように、わたしたちが居合わせる折々の食卓は偶然に天から与えられる? ときに恩寵として、ときに呪いとして。茂吉の歌が自分で自分をfeedしている人の歌だとしたら、山下の歌はめぐり合わせにfeedされている(と信じている)人の歌かもしれない。
誰かに自分を委ねることにも、自分で自分を恃むことにもつまづき続ける孤独感。でもだからこそ、寄る辺ないどうし寄り合った食卓の、ちょっとやけっぱちみたいな明るさがじんとくる。同時に腹の底にさみしさを隠し持っていたとしても、まぶしい。
母はもう生きてなくてもいいやうな夕光がもうすぐ水路を照らす
さみしさはきみがとほくへ行くやうで妻と児と連れ立つてとほくへ
冷やし中華にしようかといふ母のこゑ耳の奥より取り出だしたり
卵かけご飯が醬油の味だつたごはんの時間しあはせだつた
〈家族〉は安心してみずからを係留できる岸ではなかったようだ。あるいは、愛する友人を遠くの沖へと流してしまうのもまた〈家族〉だ。過去にその人たちといたときの味覚や声を、強い喚起力を伴って蘇らせる言葉のかなしい力を尊く思う。
さいごに、『meal』には『闇金ウシジマくん』とか『ソラニン』といった漫画の題名が詠まれた歌が出てくるのだけれど、わたしの場合は高野文子の「奥村さんのお茄子」を読み返したくなって読んだことを書いておきます。
楽しくてうれしくてごはんなんかいらないよって時も
悲しくてせつなくてなんにも食べたくないよって時も
どっちも六月六日の続きなんですものね
ほとんど覚えていないような、あの茄子の
その後の話なんですもんね
高野文子「奥村さんのお茄子」/『棒がいっぽん』
この人の深める孤独が、狂おしくめぐる後朝と待つ宵が、どうか温かくありますようにと願う。
さばの塩焼き今宵はながく毟りつつ極めてゐたり一人のわれを