(執筆者:乾遥香)
沈黙のたのしさを知りそばに居るひとよあなたをしんじつ愛す 杉原一司
「沈黙のたのしさを知りそばに居る」という「短歌」らしい、よい関係性の切り取りは、相聞的な「ひと」に対する修飾として適切に思える一方で、つづく下句はあまりにも直接的な表現になっている。「しんじつ」を「しんじつ」と、「愛す」を「愛す」と書くなんて、読者の批判的な反応をこわがる作者ならできないだろう。「たのしさ」が「たのしさ」と書かれていることも気になってくる。
わたしは杉原一司を知らないけれど、杉原は方法について考えていた人らしい。愛のことを書く方法……。
愛の話をするのはむずかしい。人に対する愛の話をしたいなら、聞き手である第三者の心も動かさなくちゃいけない。わたしの愛が「ありきたり」や「陳腐」だなんて思われたら困る。言うならなるべくうまく言いたい。無遠慮に踏み込まれるかもしれないから話さない、というのもひとつの方法だけど、わたしは、大切なものは見せびらかしたい。
愛の対象が化粧品やキャラクターなどなにか他のものなら、それの画像をつけて「最高」「無理」「死ぬ」なんてツイートするだけである程度の共感を得られるはず。でも、人に対する「愛」という感情そのものは写真に写らない。見せたいなら、文字でなんとかするしかない。
文字もたぬ昔むかしの人らにも愛をあらはす行ひありし
文字をもたないくらい昔むかしの、というたんなる時代指定かもしれないけど、こう書かれると「文字」に重きを置いて読みたくなる。文字をもたない(というハンデのある)人たちにも愛をあらわす行いがあった、と言うこの歌には、文字をもつ今のわれわれは当然、文字で愛をあらわすことができる、という前提がある。
卓にあるカツトグラスの花瓶のため細き手は二つにわかれて白し
写真に写らない事実を「ある」ことにするためのひとつの方法が、写生なのかもしれない。歌人は写生することを試みる。この歌を、わたしが愛の歌だと思ったのはなぜだろう。ここに相手のような人がいて、これが短歌だからだろうか。
この歌でもやはり「細き」「白し」という単純な描写が気になる。杉原の歌には直接的な表現がよく見られる。でも、そもそも直接的な表現ってなんだろう。短歌作者はなにに強いられて「表現」を「工夫」する必要があったんだっけ。
お前の掌に掌を重ねあふみぢめさは知りゐてなほも星くらき夜を
杉原にとって、愛は知るものであったらしい。知ったことを言いたくなる気持ちはわかる。いつか教師に言われた「インプットした知識は他者にアウトプットできてはじめて自分のものになる」という言説を思い出す。わたしはそれを、何かを「自分のもの」だと認めてもらうためには、使いこなせるところを誰かに見せないといけない、という話だと理解していた。「自分のもの」だとわたしが思っているだけでは足りない、らしい。
沈黙のたのしさを知りそばに居るひとよあなたをしんじつ愛す
わたしも愛を知っていく。わたしはその愛がわたしのものであることを証明したい。わたしの愛を使いこなしたい。愛がここにあるということを、あなたにも認めてほしい。
真実の愛の話をしたくなったとき、2020年のわたしはどうしよう?
◇乾 遥香(いぬい はるか)
「ぬばたま」同人。獏短歌会。読者。評者。短歌と評について考えるための同人誌を2020年春発行予定。Twitter:@h_inu_i