『太陽の横』は山木礼子による自らの指名手配書である。
後ろ手に髪をくくれり夜の更けを起きて詩を書くならず者にて
しぼみたる胸をしぼれば耐へがたく美談のやうにまだ乳が出る
三年をともに過ごして子はいまだ母の名前を知らずにゐたり
なけなしの時間と体力を絞って、生活の足しにならない詩を書く。誰の領域を侵すでなく、しんと己と向き合うことでさえ、この社会はしばしば、神話的な良妻賢母像からの逸脱とみなすだろう。「全存在で子に注ぐための母性愛に割くべきリソースを『そんなこと』に使うなんて!」云々。母乳すなわち美談に直結する世界観は、裏返すと「乳を出さない母」を罰当たりと糾弾するそれである。だから、耐えがたい。讃嘆であれ断罪であれ、〈母〉とは個人の顔と名を平たく覆い隠すステッカーに他ならない。
されば、詩人は自らをならず者と呼び、指名手配せねばならなかった。こんな世界に向けて。こんな世界でこの先ながく生きてゆくわが子に向けて。
ねむさうなわが子を浸し揺らしをりゆらゆらと茹であげるごとくに
芋ほりに子が持ち帰る大ぶりで泥だらけの芋 こまりますよね
誠実に噓はつらぬく 買つてきた安納芋を汁に落として
腕づくでちひさな腕を引きよせる石けん水のボトルの下へ
ほらこれが私の罪状です、と差し出すような歌。1首目、たゆたうようなリズムにのせた、上句の微笑ましい入浴のシーンが、「ゆ」の頭韻をやわらかく重ねたまま、気がつくと釜茹での空想に裏返っていく。無意識の加虐性がさらっと兆す、そのさらっと具合がまざまざとリアルだ。2首目と3首目は同じ連作にあって、子が芋掘りから持ち帰った芋を腐らせた顛末を歌っている。2首目の口調はほとんど、探偵もので観念した犯人が言うようなあれだろう。4首目は連作で読むとコロナ禍の登園「自粛」が背景にあるらしいとわかる。どちらにせよ、動詞「引き寄せる」であったり、下句の客観的な位置指定のために、わが子の腕が即物的に捉えられている。「石けん水のボトル」が画面中央にあって、いきなりフレーム外から小さな腕と、それを引きよせる手が現れる、みたいな映像が見える。カッとなった瞬間の、けれどもぎりぎり理性的であろうとする、子を守るために子の身体の自治を侵さなければならない不如意が満ちた、表面張力でなんとか耐えているみたいな凄みがある歌だ。
けれども3首目で自ら「誠実」と言うように、これらを罪状として、ときに先取りしてまで(だけどどうやら罰は先取りしないし、捕まるつもりもないみたいなのだが)数え上げ、精確に歌にするのは、むしろ人間として誠実で、優しいと思う。それに、この「芋」の異物感はそのまま、〈私〉という個体にとっての子という存在の異物感に見える。
人ひとり肩にかついで歩みゆく 愛なのかもうわからない力で
からだから取り出したものは龍だらう、ほら鬣がこんなに生えて
つまり、山木にとって(と、イコール作中主体としてより歌の作者としての山木に重きを置く気持ちで書いてしまうが、)わが子は、決して自らの身体の延長ではなく、治外法権があるから何をしても裁かれないなどとはゆめゆめ思っていない。母と子といえども、あくまで別々の身体を生きる、独立した生き物だと知っている。知っていて、痛いほど誠実に怯え、怯えながら誠実に抱きしめる。
歌集のなかでは繰り返し、子を育てる日々を、家を、逃れがたい檻のように思う感覚が歌われている。そしてまた、聡く想像力のある作者は知っている、子どもにとって母こそが檻であるかもしれないことを。2首目は第2子出産の折の歌で、作者の師・岡井隆の〈ヘイ 龍 カム・ヒアといふ声がするまつ暗だぜつていふ声が添ふ〉(『宮殿』)を連想した。「こっちへおいで」の呼びかけと、「生まれて来てもこの世界は真っ暗だけれど」の間で葛藤する母が子に願うことはなにか。
ながいながい別ればなしの途中ではきみの涎を拭いたりもして
どの星もごめんきみにはゆづれない 宇宙図鑑がかはりに届く
焦つても仕方がないよエメラルドわたしも今も石が好きだよ
長生きのご褒美としていいだらう大人は毎日電車に乗れる
地下鉄でレーズンパンを食べてゐる茶髪の母だついてきなさい
ならず者の詩歌人が子の未来に望むことは、母からの(あるいは「家」からの)脱獄なのではないか。
産道を抜けて一人と一人に分かれたからには、そののちの日々はながい別ればなしだ。私の星も偏愛するエメラルドもゆずれないけれど、きみの星を見つけるための地図と磁石をあげよう。この世界がどんなに真っ暗でも、大人になれば電車に乗って抜けて行けるよ。お日さまの届かない地下にだって電車は通っていて、毎日乗れる。だから大丈夫。
ところで、本書の読後感から連想が及んだのだけど、10年ほど前に放映していた特撮ドラマ「海賊戦隊ゴーカイジャー」のオープニングナレーションが好きだ。いわく、「宇宙帝国ザンギャックに反旗を翻し、海賊の汚名を誇りとして名乗る豪快な奴ら」。ゴーカイジャーは帝国に対する抵抗勢力であるがゆえに海賊の烙印を押されるのだが、逆にこの汚名を正面切って掲げることで、自由なはずの個人をならず者と名指し、檻に鎖そうとする権力構造の醜悪さと暴力性を告発している。
ぎりぎりの日々から、夜々から発される山木のクィアなヒロイズムは、かれら宇宙海賊の豪快さとよく似ている。
雌の方が大きく育つ生き物に生まれたかつた みづに吐く息
いつしんに見しゲイビデオまぶしきは前と後ろの入れかはるとき
子を持ちても歌会へ通ふ日々をもつ男性歌人をふかく憎みつ
性に基づく役割規範の大部分は、男性のほうが腕力が強いという身も蓋もない偶発事に由来するのではないか、という悔しさ。3首目は「子を『持つ』」「日々を『もつ』」と所有を表す動詞を重ねているのを聞き逃してはいけないと思う。父が妻を、子を所有し、母は夫に所有されながら子を所有しているという錯覚は、歌人の社会にも残存している。家を出てもまた〈家〉――いや、そもそもが家から出られない。言うまでもないことだが、いわゆる家父長的な価値観の亡霊といった意味での〈男性歌人〉なのであって、この歌をミサンドリーとみなしても詮無い。そうではなく、ただ「入れかはる」自由がほしいだけ。ただそれだけを、なぜまぶしさとして眺めるほかないのだろう。
子供ゐたんですかと驚かれしことが熱いきらめきとして尾を引く
母としての姿を知らない相手から、そんな姿は想像できなかったと驚かれる。独立した一人の、自由な大人としてだけ見てくれていたことの喜び。でももしかしたら、「若々しくて美しく見える」と褒めるつもりで言われたのだとしたら。それをわずかでもうれしいと感じてしまった自分の、内面化されたエイジズムへの後ろめたさも、この歌には含まれている? 深読みだろうか。「尾を引く」は「悲しみが尾を引く」とか、どちらかというとネガティブなニュアンスで使われる印象があるので、ちょっと考えてしまう。ともあれ、この「熱いきらめき」はアイメイクっぽさがあるのがまた良いなと思う。
わたしは狐 あした死んでも光栄だあなたのまとふ毛皮になるなら
婚や子に埋もれるまへの草はらでどんな話をしてたんだつけ
子を産んで毎日泣いてゐる人へ わたしはあなたのすべてを守る
歌集の前半・Ⅰには「短歌研究」誌上での連載作品が収められており、これらはわかりやすく2人の子を育てながら生きる日々の歌群なのだが、後半にあたるⅡは作中人生の時系列的にⅠの前後どちらの歌も並んでいる。先に引いた〈雌の方が〜〉の歌や、本書の表題歌を含む連作「狐」は、おそらく〈婚〉をうたった一連だと読んだ。(連作の3首目は女湯でどこかの母親が連れている男児を詠んだものだろう。2羽の鳥、「食つとけよ」、風上、などの要素やフレーズが暗示的である。)
ここで引いた1首目は、〈婚〉を前提に読むなら、夫となったひとりの人(この連作においてさえついに顔は見えない)に向けた歌ということになる。
けれども。
わがままを言うなら、山木には光栄などと言って死んでほしくない。
毎日泣いているすべての〈あなた〉と、どこまでも続く〈草はら〉を逃げおおせて生き延びる伴走者でいてほしい。踏みしめられた草はらに足が残す凹みは、やがて元通りに戻るかもしれないし、あるいは走っていると思った次の瞬間に、暗く鎖された地下鉄の中で目覚めるのかもしれない。
だとしても、その軌跡はたしかに熱いきらめきに違いないのだ。
何度埋もれたとしても、光る逃げ道を草はらに詩歌が穿つことを、すでに証している『太陽の横』は、お尋ね者の栄光そのものなのだから。