【きょうは傘とか歌ありがとう 1】谷じゃこ『クリーン・ナップ・クラブ』 ― 笠木拓

歌人の笠木拓さんが毎月一冊の歌集を取り上げる歌集評連載。
第一回は谷じゃこ『クリーン・ナップ・クラブ』です。
***

(執筆者:笠木拓)

 谷じゃこさんの短歌を読んでいると、真面目だなあといつも思う。

 ピザまんの紙を夕日に透かしたら夢はないけど宿題します  谷じゃこ『クリーン・ナップ・クラブ』

 放課後にコンビニで買ったピザまんをその場で食べる。まだ温もりがすこし残る薄い紙を夕日に透かす。夢や将来のため志をもって学ぶことこそ尊い、みたいな価値観は息苦しくて、だけどその息苦しさのほうを言うのではなく「けど宿題します」とおさめる真面目さ。ピザまんの紙越しに見上げている束の間だけは、夕空は半ば白くくぐもって、光はぼんやりとやわらかくなる。
 真面目さは見立てや異化のおもしろさに結実する。

 ジャングルの葉っぱの奥になんかおるみたいな座席のバス加速する
 おすもうさん、トイおすもうさん、ティーカップおすもうさんで三連勝や

 1首目、言われてみれば観光バスのあの深い色あいの座席と模様は、どこかジャングルっぽい。観光バスに(みんなで)乗っている場面だと、わくわくで想像力も加速するあの感じを「なんかおるみたいな」が言い当ててくれる。秀歌のセオリー的には結句の「加速する」まで言わずに、座席=ジャングルの発見だけでいける気もするけれど、だけどこの歌は動きだしたほうがいい。楽しいので。2首目も、トイプードルならぬ「トイおすもうさん」の一語だけで成立するはずなのだけれど、「ティーカップおすもうさん」まで被せてダメ押しで「三連勝」にしてしまうのが小気味いい。ただし、あまり名調子になっては韻律面でもおもしろがりすぎになるところ、句またがりで小さな息継ぎをはさみながらゆるくつなげている。

 小京都巡るわたしの存在が大きすぎたりしないでしょうか 
 猫の額ほどの家とはすばらしい触り心地がサイコーやんか

 これらの歌でもサイズ感の伸び縮みが異化作用を生んでいて、慣用表現を意図的にずらすことで、言葉の上で起こっている異化なのだけれど、巡ったり触ったり、自ら参入していく感じ。「サイコーやんか」の言い切りは、後に「知らんけど」(関西弁あるある口癖)が続く余地がなくて、ごまかさない真面目さが愛だなと思う。

 『クリーン・ナップ・クラブ』は『ヒット・エンド・パレード』に続く谷じゃこさんの2冊めの短歌集で、B6判のかわいい本だ。かわいいというのは手になじむサイズ感だけではなくて、辛子色のカバーには、頭が鯖の人物がカニに囲まれたイラスト、本文中ところどころにカットも入る。
 章立ては「いい歌」「青は秘密の色じゃない」「はじまる」の3つ。後の2つがそれぞれ22首、12首の連作、残りの大部分の歌は小題なしで「いい歌」に並べられている。

 犬もいいな この大好きな公園をきっとわかってくれると思う 『ヒット・エンド・パレード』

 前作から。この歌がとても好きだ。この優しい想像のしかただけで、この人はたぶん犬と信頼しあって、大好きを分かち合えるんだろうなとわかる。おおらかであたたかく、それでいてK音の頭韻が芯の強さを感じさせる。一読者が勝手に言うのも変な話だけど、じゃこさんの作歌信条はこの歌に端的にあらわれているのではないだろうか。
 著者自身もあとがきで「好きなもの全部短歌にしたい」「私は自分の好きなものを好きと認めることが結構得意なほうやと思う」と述べている通り、歌集のどのページにも好きを歌う著者の資質があらわれている。

 ――だけでなく、その好きが偏愛であって博愛ではないこと、偏りに自覚的であることに信頼を覚える。

 夕まぐれ千秋楽のウナギにもアナゴにもそれぞれの力を
 SMAPが7人もいて目を閉じる 開けば世界中花だらけ
 赤の色えんぴつと赤えんぴつが同じ待遇ではないように
 ラブ&ピースのラブのほうだけでピース気分になってんちゃうで

 1首目は初出(「Sushi-go-round」『めためたドロップスS』)のときから気になっていた変な歌。「千秋楽の」とは回転寿司で〆に食べるという意味かもしれないし、命の終わりや食品としての終わりが近いという意味かもしれないし、あるいはウナギ対アナゴの最終戦? よくわからない。わかるのは、似ているけれど片方がもう片方のお手頃版とみなされがちなウナギとアナゴが、並んで夕暮れの光の中にあって、この人がどちらもを応援していることだけ。わからないけどエールにぐっときてしまう。2首目は肯定的なニュアンスでももちろん読めるのだけど、あのヒット曲の「オンリーワン」が悪平等っぽいことへの静かな皮肉も含んでいる気がわたしにはする。みんなが特別なオンリーワンというのは、結局のところ有象無象の没個性へとそれぞれの生を無責任に突き放しているのだけなのではないか、みたいな。そういう無責任さへの疑念は、3、4首目のような歌として時折顔を覗かせる。
 であるならば。「もともと特別」という没個性に溺れないために、好きを自分だけの角度でとことん突き詰めて歌にする。これこそが谷じゃこ流ファイトスタイルなのだ。……と断じるのは言い過ぎだろうか?
 突き詰めた真面目さはまた、ささやかでどこか水くさい、局地的な愛の祈りにも結実する。

 手袋をはずして空へ大声で神様だけに聞こえる手話を
 何味かわからないこのキャンディーがとけてなくなるまでのおいのり

 これらの歌はたとえば雪舟えま作品に見られるような、どこか野性的で、良い意味で聞こえよがしな愛の祈りとは好対照だ。

 顔ふいたタオルそのまま皿もふき天にお返しするように置く  雪舟えま『たんぽるぽる』

 さっき思わず「ファイトスタイル」と書いたけれど、本書では日常の猥雑な生きづらさがおそらく意図的に後景化されている。にしても、やはり心を守る戦いの書として読んでしまうところがある。

 かもめかもめ一つとばしてかもめ そのとばしたところのわたしさみしい
 宝石はいつでも味方 でも今日のところはグミで心をしのぐ
 銀色の電車に乗ってしまったらあれよあれよとさよならやんか
 急に風吹いて反旗を翻す 裏地かわいいコート羽織って

 この歌集の「裏地」は「反旗」、それもかわいい反旗なのだ。

 巻末の2つの連作では、主人公の輪郭が比較的見えやすい。毎日仕事へ通いながら、息継ぎをするように好きを選び取っていく生活者。

 やっとはじまりましたね、と声かけてくれるビールの売り子さんたち  「はじまる」
 出ていっても好きな選手の好守備に敬意を込めて悔しく思う
 地に足のつかない暮らしも悪くない鯖の真似して泳ぎ続ける  「青は秘密の色じゃない」

 売り子さんからすれば手癖みたいな声かけかもしれないけれど、優しさとして書き留める真面目さ。悔しがりながらも敬意を込める真面目さ。大好きな鯖と人間の自分は異質なものと知りながら、真似て生きる、生き続けると宣言する愛。
 あらせ氏による装画を著者がどうオーダーしたのかはわからないけれど、頭がまるごと鯖1匹で、首から下は人間の姿は、ぴったりだと思う。地に足はつかないけれど、好きを見極めるとき、選び取るとき、独りしっかり立つことができるのが、この歌集の主人公だから。好きの体幹がぶれない。
 偏愛を武器として、方法として選ぶことは、決して分の悪いやり方ではない。そう思わせてくれるところが、この歌集のユニークな達成だ。

 ぴかぴかに磨く りんごは小松菜と仲良くできるえらい果物

 ふたたび「いい歌」から。ぴかぴかに磨いてえらいと言えるその手と声こそがえらい、と思う。思って、勇気をもらう。

タイトルとURLをコピーしました